【洋三】えいえんは満ちないからうつくしいのか

※有川浩『塩の街』パロです
※時代背景は三井が高校卒業後して2年後くらいを想定しています









 初夏の太陽は、日を傾けてもなおじりじりと肌を焼いていく。

 梅雨明けのこの時期、平和だった頃は溢れんばかりの人で賑やかだった湘南の砂浜は、人ひとりすら居らず閑散としている。砂浜だけではない。オーシャンビューが見渡せる車道にも、江ノ電の駅にも、誰も居ない。

 

 いや、正確には『居た』のだ。かつて『人間だった』ものは、白い塩の柱となって、駅のホームにぽつん、と立ちつくしている。

 かつて人型だった塩柱は、海からの潮風や雨に濡れて、どんどん人型を失くしていた。あれが人間の死体だと思うことをやめたのがいつだったのか、もう覚えていない。道端にぽつん、ぽつんと立っている白い柱がすべて死体なのだと思ったら最後、きっと気が触れておかしくなってしまう。
 駅ではない線路の上で、江ノ電は静かに停車している。電車は、もう動いていない。



――その日は唐突に訪れた。



 人間が何の前兆もなく肌から塩が噴き出て、そのまま指の先から塩の結晶と化していく奇病。「死にたくない」と泣き叫びながら、数時間で塩の塊になり死に至る病。
 最初は都心だけだったその病は、感染するように徐々に範囲を広げていった。感染源は分からない。対処法もわからない。ただ判るのは、その病に罹ったら最後、命は助からないということだけだった。

 人々は慄いた。罹ったら最後、致死率100%の病がすぐそばまで迫ってきていることに震えた。信念を持って自分の仕事に取り組む人々もいたが、ほとんどの住民が仕事どころではないと関東から逃げるように地方へと散っていった。

 自分は湘南のこの海が好きだった。生まれて半世紀、自分はこの湘南の海と共に生きてきた。五十を超えた今、身寄りも家族もいない自分に地方への行先のあてもない。それならば、死ぬ時は此処だと。塩の柱になるその瞬間まで此処に居ようと決めた。
 そして毎日、誰も居ない砂浜を眺めて、明日には見れなくなるかもしれない美しい海を目に焼き付けながら日々暮らしている。

 今、他の地域で『塩害』の被害がどうなっているのか。平和な頃なら情報端末で数秒で調べられた事が、今や遠く感じる。
 すでにスマホ等の情報端末は使い物にならなくなっていた。電源が切れたからではない。電源が切れる前から、正しい情報を提供してくれる国営の機関すら、その役割を果たさなくなっていたからだ。

 最初に、民放テレビが映らなくなった。次に都市ガスが使えなくなり、電気の供給と水道の供給が同時期に。NHKだけは辛うじてその奇病『塩害』を伝えていたものの、電気の配電がストップするとともにその役目を終えた。
 ラジオ放送だけは、週に一度ノイズまじりの放送を配信してくれていたが、それも先週あたりから音沙汰がない。ついに、ラジオ局もダメになってしまったのかもしれない。

 そんな日々を過ごしていたからこそ、その動く人影を見た瞬間、自分は何かに惹かれるかのように駆け足で近づいていった。
 自分以外に生きている人間に会ったのは、もう数か月ぶりの事だった。

 単純にうれしかった。まだ世界で生きている人間が自分だけじゃないとわかって、高揚していた。



 その人影は、まだ十代か二十代だと思われる、若い男だった。
「水戸洋平、って言います」


 男は小さく首を垂れた。
 聞くところによると、自暴自棄になった人間が捨てたゴミなどで汚染されていない綺麗な海を探して、延々と海岸線を歩いて来たらしい。このあたりはまだ以前のような透き通った海だと伝えると、青年は安堵したように笑った。

「よかった、もうそろそろ歩き疲れて倒れちまうなって思ってたんです」

 冗談交じりにそう言う彼は、バックパッカーのような大きな黒いリュックを背負っていた。リュックの肩紐が服と肩肉に食い込んでいて、肩からはうっすらと出血すらしていた。
見るからに痛々しい様子に、自然と慮る言葉が出る。

「荷物を一旦下ろしたらどうかな?かなり痛そうだ」
「いえ、大丈夫です」
「でも……」
「いいんです。地面に下ろしたら『崩れ』ちまいそうで怖いんで。このまま海まで『連れて行く』って、約束したんです」

 『崩れる』『連れて行く』。……普通のバックパックの中身では絶対に使わない言葉を聞いて、自分はすべてを悟ってしまった。
 慈しむように、絶対に荷物を地面に下ろさない姿。
 自分の身体の大きさと同じほどの質量を背負う姿。そのすべてが、その答えを示していた。


「……名前、聞いてもいいかな」
「ああ、……『これ』ですか?」

 その青年はリュックを開けてくれた。中身を見て、自分は静かに目を閉じた。それは黙祷の気持ちに似ていた。

 「『ミツイヒサシ』っていうんです。三つの井戸の三井に、『ことぶき』って漢字で『ヒサシ』って読むんですよ。めでたすぎる名前ですよね」



 中身一杯に、溢れそうなほどに詰め込まれた――真っ白な塩。 ……まだ一部は形が残っている。ぎっしりと詰まった塩に埋もれて、年若い男の顔立ちがはっきりと見て取れた。


「……大事な、人だったんだね」

 野暮な台詞のような言葉だった。
 大事だったに決まっている。道端に転がる塩の柱。そのように放置せずに、ここまで大事に運んできた『人間』が大事じゃないわけがない。 


「大事、か……。うん、そうかも。最後の瞬間だけ、そうだったと思います」



 最後の瞬間。それは――……敢えて聞かなくても分かった。
 青年が小さく肩をすくめた。
「ここで会ったのも何かの縁だし。……どこにでもあるような話、聞いてくれたりしますか?」
 
 冗談めいた言葉の裏に、真摯な色が宿っている。ゆっくりと頷くと、青年はふうっと息をつくと、夕焼けに染まりつつある水平線を眺めた。遠くには、江の島の灯台が見えた。

「ずるいんですよ、この人。最後の最後に、どうして俺のところなんて来たんだろう。高校卒業して、もう何年も経ってて、その間一度だって俺のところなんて来なかったのに。あの人の一番はバスケットボールで、俺はあの人の世界には居ない人間で。あの人と俺の関係なんて、そんなもんだったのに」




 ――あの晩。
 ぽろぽろと、歩いた後に塩をこぼしながら、三井は初めて一人で水戸のアパートへとやってきた。
 流したのであろう涙の跡が、くっきりと頬に筋をつくっている。「泣いちゃダメでしょ、もっと溶けちゃうよ」。口では軽い冗談のように言いながら、水戸の手は小さく震えていた。
 震えた手を、ゆっくりと三井の背中へ回した。初めて抱きしめた三井の身体は、潮の香りがした。

「『なあ水戸、オレこわいんだ』って泣くんです。怖いんだったら親のところでも、大学で仲良くなった奴だとか、俺なんかより近しい人のところに行けばよかったのに。そんなことになって初めて、俺の事が好きだったんだなんていうんですよ、この人。メチャクチャすぎるでしょ。本当に……ずるいんです」


 ごめん、ごめんな。本当にごめん――。
 三井は何度も何度もそう呟きながら涙を流して、水戸はそのあふれる涙を懸命にぬぐった。涙で頬がこれ以上溶けてしまわないように、ハンカチみたいな上品なものなかったけれど、使い古しのタオルに彼の涙を染み込ませた。


 せめて、この人が綺麗なままで塩の柱になれるように。そんな気持ちで、ひたすら。三井はしゃくりあげながら懸命につぶやいた。
 こんな風になるまで気づかなかったんだ。手のひらから塩が吹いたのを見て、やっとわかった。もうオレは助からない。わかってる。死ぬのは怖い。でもこうなった時ふと……最期はお前のそばにいたいって、そう思ったんだ。
 親でも、大学の同期でも、高校のバスケ部の奴らでもなくて、お前のそばで死にたいって――。こんなの迷惑だよな、わかってる。でも、オレ……こうなって初めて、お前の事好きだったんだって分かったんだ。本当、オレ……馬鹿だ。

 水戸は俯きながら再び泣き始める三井の顔を上向かせて、口付けた。唇の感触はもう塩の塊のように硬くて、口の中は塩辛かった。それでも、舌を絡め合った。
 互いのすべてを奪い合って自らを与えるような、一生忘れないようなキスをした。

「世紀末みたいな世界にならなきゃ気づかない気持ちって、あるんですね。世界がこんなことにならなかったら、きっとこの人は一生俺のアパートなんて来なかったし、それぞれ適当に彼女作って、適当な年齢で結婚して。子供ができて、オジサンくらいの年齢になったときにばったり会ったりして、『懐かしいな』なんて言いながら思い出話に花を咲かせるくらいの関係にしかなれなかったと思います」


   

 三井さんが塩になったら、海に連れて行くよ。
 オレの名前の由来でもある、太平洋の海。いいでしょ。江ノ島が見えて、綺麗な砂浜のところがいいな。
 高校の頃、江ノ電の駅のホームからよく見てた海だよ、懐かしいよね。三井さんが塩の柱になっても、そこで俺がずっとそばにいてあげるから。何も怖いことなんてないよ、だからもう泣かないで、三井さん。


 うん、うん……水戸……ありがと……。

 もはや頷きすらできなくなった身体で、三井は懸命に頷こうとする。水戸の腕の中で、その身体は刻一刻と固くなっていく。


 お前が一緒に居てくれるなら、怖くないな。オレ、本当にお前に最期に会えて、本当に良かった。ありがとう、ありがとうな。

 お前が一緒に居てくれるなら、怖くないな。オレ、本当にお前に最期に会えて、本当に良かった。ありがとう、ありがとうな。

    
 もう舌もうまく回らない三井の声を一つ残らず聞いてやりたくて、水戸は耳を口元に寄せて、懸命に頷いた。
 わかってる、俺もだよ。最期に俺なんかのところに来てくれてありがとう。……え?『俺なんか』って言うなって?はは、こんな時にまで怒ってるの三井さんらしいね。分かってるよ。

 ……最期に、俺のところに来てくれてありがとう。


 最期の瞬間は、どちらも分かっていた。
 水戸の顔を見つめて微笑んだまま、三井は白く凍り付いた塩の柱になった。







■■■










 先ほど出会った妙齢の男性と別れて、水戸は一人で波打ち際のあたりまで歩いてきた。オレンジ色に染まる海は、息をのむほどに綺麗だった。

 人間が奇病で倒れ朽ちていく世界になっても、自然の風景は何も変わらず美しい。 世界中、人類が誰もいなくなっても――毎日、この美しい世界は変わらず続いていくのだろう。
 海も空も太陽も、何も変わらず、明日もこうやって美しい夕焼け色に染まっていくのだ。



「どう?三井さん。ここなら綺麗だよね。江ノ島も見えるし」

 水戸はバックパックの中から三井の顔を手に取り、江の島の灯台を見せるように捧げ持った。きっと、三井も慣れ親しんだその風景をきっと喜んでくれていると思いながら。
 

 しばらくそうしたのち、水戸はその塩の欠片に静かに口付けた。そのまま、打ち寄せる波の中に、静かに欠片を浸した。
 決して砕こうとはせず、波が寄せては引いて、自然に溶けていくまでずっと水の中で欠片を支えていた。


 そして、すべてが溶け終わってから、残りの粒子になってしまった中身の塩を掬って、海へと振りまいた。何度も何度も、その動作を繰り返す。
 彼の体積を象っていたいたその塩を撒き尽くすまで、一粒残さず――……水戸はすべてを海に還すように撒いた。


 中身の無くなったバックパックを横に置いて、水戸はようやく腰を下ろした。
「なあ三井さん、聞いてる?」


 三井が溶けた海に向かって、水戸は小さくつぶやいた。
「俺達、こんなクソみたいな世界にならなかったら、きっとこうなれなかったよね。俺さ、三井さん背負いながら、ずっと考えてた。三井さん、俺さ、今からすごい身勝手なこと言うよ。俺達がさ……こうなるために、世界はこんなふうになったんじゃないかって、今はそう思ってるんだ」

 自分で言いながら、なんて傲慢なラブストーリーなんだろうと笑ってしまう。
 笑いながら、水戸は握りしめていた自分の拳を開いた。 そこには、あの時の三井と同じように、手のひらから塩が吹き出てきていた。

 水戸は小さく安堵の吐息を漏らした。

 間に合って良かった。先ほど妙齢の男と出会うずっと前から、足先の感覚が無くなって来ていた。きっと、一度座ってしまうと二度と立てなくなる。そんな思いで、ここに漸く辿り着くことができた。

 ざあ、ざあと波が水戸の足を濡らす。塩の粒子になって溶け落ちていく水戸の足先が、先ほどの三井の欠片のように海に溶けていく。

 三井を海に溶かして、自分もその海に溶ける。
 二人とも同じ濃度の塩の海に――。ひとつに溶けあうために。

 砂浜には誰も居ない。けれども、誰が見ていても見ていなくてもいい。人間がどうなろうと関係なく美しいこの海で、世界で、自分たちはひとつになるのだ。


 

 どこまでが自分で、どこまでが彼なのか分からないほど溶け合って、ひとつになって、この美しい世界の一部になる。

  ――それは永遠を手に入れたのと、同意義なのだから。







End