【洋三】春の匂いを連れて

 夕方の五時を過ぎても、夏の夕方はまだまだ西の空はるか高くに太陽が昇っている。

 じりじりと肌を焼くような光の強さではないけれど、洋平の背中を照らしたそれは、長い影を歩道に映し出している。いつかこの影のように、酔っ払った母が毎回のように話す顔も知らない父親みたく自分も背が高くなるのか、なんてぼんやりと思った。


 仕事柄、夜中もしくは朝方に返ってくる母の吐息はいつだって酒の香りがして、ぐしゃぐしゃになった化粧をそのままに洋平の顔を見ては、時に笑い、時に泣き、時に怒鳴り散らすような女だった。「あんた、本当にあの人そっくりになってきたね」。狭い六畳一間で母親と思えない声色でそんなことをぽつりと呟く。その言葉の裏に潜む様々な感情を、無表情で知らないふりをする癖が上手くなったのはいつからだったか、もう覚えていない。

 父親という存在は、自分の中ではぼんやりとしたものだった。クラスメイトが言う『お父さん』『パパ』の取るに足らない話は、すべて見えない硝子を一枚隔てた世界で起こっている事のように自分には思えた。「洋平の家ってさ、なんで父さんいねえの?」「ふつうはいるよな?」無邪気な問いかけに、「さあね」と肩をすくめた回数も、もう忘れてしまった。


 幸せな両親と家庭、家に帰ったら無条件で愛されている同世代の少年たちと自分、どちらが『普通』でどちらが『普通じゃない』のか。『普通』という大多数が押し付けてくる残酷な言葉にも、何も感じないようにそっと蓋をして、自分はこの世に意味もなく生を受け、今日も生きている。


 鳴き疲れたのだろうか、蝉の声はかすかに聞こえるくらいで、それよりはひぐらしのコロコロと鈴が鳴るような鳴き声が商店街に響いていた。

「帰ったらせんたくものをとりこんで、それからごはん……」
 黒いランドセルを揺らしながら、ひとりごとのように呟く。洗濯、ご飯の用意、その他諸々……。小学生も高学年になる頃には、洋平はひととおりの家事をこなせるようになっていた。
 レジ袋には一週間分の具材が入っている。大人の男であれば楽々持てるだろう袋も、小学生の腕力では少し荷が重い。暑さでナイロンのレジ袋がずるりと手から滑り落ちてしまいそうになるのを、何度も何度も掴み直してゆっくりと帰路につく。こめかみのあたりからつうっと汗が滴り落ちた、そんな時だった。

「みとくん?」

 幼い少女の声にふと横を向くと、数時間前まで教室で授業を受けていたクラスメイトの女子が立っていた。名前を呼ぼうとして、ふと彼女が先程までの洋服ではなく、色とりどりの柄が染めこまれた浴衣を羽織っていることに気づく。
「あれ?みとくんは、おまつり行かないの?」
「おまつり?」
「うん、今日は夏まつりがあるんだよ!わたあめとか!たこやきとかたくさん!!」
 ぴょんっと可愛く飛び跳ねた彼女の腹に巻かれた帯が、金魚の尾みたいにふわっと揺れる。朝顔柄の浴衣は、彼女によく似合っていた。隣に居た母親らしき女性が「あんまりはしゃぐと浴衣が着崩れちゃうでしょ」なんてたしなめている。

「水戸くんは毎日お母さんの代わりに偉いわねえ……毎日、大変じゃない?」
「いえ、そんなことはないので大丈夫です」
「そう……」


 小学校の校区は小さい。この母親もきっと洋平の家庭事情くらいは(噂込みで)色々と知っているだろう。夜のお仕事してるらしいわよ、最近は全然家にも帰ってないんですって。借金もあるとか。あら可哀想ねえ。片親なのにそんなのじゃあ。うちは幸せでよかったよね。そうねえうだつの上がらない亭主だけどいてくれてよかったわ。……結局自分たちの幸せを再確認するだけの低俗な井戸端会議の噂話。尾ひれのついたその噂で、同情めいた目で見られることには慣れていたけれど、決して気持ちいいものではない。


 洋平はすっと視線を逸らした。ぺこりとお辞儀をして、再び歩きだす。背中越しに、彼女が母親に屋台で買うのは3つまで、なんて約束をさせられて少し拗ねている声が聞こえてきた。


 色とりどりのかき氷、ふわふわの綿あめ、元気よく跳ねるスーパーボール、ゆらゆらと揺れる浴衣の帯。

「…………」

 きらびやかな祭り屋台、桶の中を泳ぐ赤い金魚。カラフルな祭りの看板。
 そんな彩色ゆたかな世界と反比例するように、硬く蓋をしているはずの心が、残暑厳しい夏の夕日に焦がされたように黒ずんでいく気がした。


 自分が可哀想だとは思わない。ただ、自分が生きていて一体誰が喜ぶのかと、たまに考えてしまう。息を吸って、吐いて。日々生きていくだけ。一年ごとに年齢を重ねていくだけで、何の感慨もない。こうやって死ぬ瞬間まで、自分は生きていくんだろうか。


 それでも、ふとした瞬間に考えてしまう。自分とは違う世界に住んでいたかもしれない自分のことを。
 母親の優しい手が、小さな自分に浴衣を着付けてくれる想像を。父親と手をつないで、屋台を回って、いちご味のかき氷を頬張る自分を優しく見守っていてくれる想像を。自分と同じ炭を溶かし入れたような黒髪を揺らして、涼し気な顔つきの父親が自分を見つめ、頭を撫でてくれる。そんな、在りもしない幻想。

「……はやく、かえらなきゃ」

 そんな夏の日は、これからも来ない。
 汗でずり落ちそうなスーパーの袋をもう一度きつく握って、祭りの喧騒に背を向けたまま、ランドセルを背負った影はゆっくりとその場所から離れていった。



◇◇◇





「――…と、…みとぉ、水戸!」
「え、あ……何?」
「どうしたじゃねーよ、ボーッとしてるし。疲れたか?」
 それとも三井サマのドライビングテクニックにメロメロになったのかよ、なんて自信満々の顔でこちらを覗き込む琥珀色の瞳に、洋平は小さくかぶりを振った。
「いや、なんかちょっとだけ寝てたかも」
「寝るほどスムーズな運転だったって?照れるぜ」
「そうは言ってないよ」


 卒業式前に免許合宿で車の運転免許を取ったらしい三井に助手席に乗せられたところまでは覚えている。運転席に座ってどうだと言わんばかりの顔つきと、車体後部に大きく貼られた初心者マークのギャップがなんだか可笑しかった。
「まあ、いいけど。着物の帯、きつかったりしたら言えよ、緩めてやるから」
「三井さん、その言い方さあ……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
 そんな『別の意味』に捉えられてもおかしくないような微妙な台詞を放つ男をちらりと見ると、いたって真面目な顔でこちらを見つめている。彼にとっては言葉通りの意味で、間違いはないのだろうけれど。そういう所が、育ちが良いなと思う。

 数時間前、いきなり「梅、見に行かねえ?」なんて言って着物を手渡されて当惑する洋平の横で、淡々と素早く自分の着付を終えた三井は、当然のように洋平の帯もきちんと締めてくれた。美しい姿勢でバスケットボールを放つ手先が、繊細な帯をくるくると結んでいく様子は鏡越しにでもこっそり見惚れてしまうほどに見事なものだった。
「三井さん、着付けとかできるんだ」
「年に何回か着る機会あんだよ。ばあちゃんが活花の師範やってて」
「へえ、すごいね」
「そろそろ展覧会のたびにオレを駆り出すのやめてくれって言ってんだけど、聞いてくんねえし」

 その時のことを思い出したのか、重い溜息をつく三井に洋平は苦笑した。身長も肩幅も立派で、見目麗しい(一般的には)若い男が着物を羽織っている姿は、大層ゲストを喜ばせるに違いないだろうなと思う。

「でも、出来ないより出来るほうがいいじゃん」
「まあな~、それにこういうの着ると、なんかいいだろ。ワビサビ?があって」
「趣のこと?」
「それそれ」
 梅と着流し、絶対合うだろ~写真映えしそうじゃねえ?なんてはしゃぐ三井を横目に、水戸は小さく笑った。


 連れてこられた場所はどうやら大きな神社らしく、神社の一角に梅園があるようだった。入口から中に入ると、白に近い色から、薄紅、目の覚めるような紅色まで色とりどりに咲く梅をバックに、三井は写真を撮りたがった。「水戸ぉ~ここでも撮ろうぜ!」。賑やかな声に、はいはいと苦笑しながらあとをついて行く。
 三井に手渡されたカメラで指定されたとおりに写真を撮っていく。どの写真も綺麗に撮れたけれど、紅色の梅と笑顔の三井の写真が一番目を惹く。この人はやっぱり赤が似合う人だなと、こっそりと思った。

 途中、東屋で休みながらぐるりと一周して、出口に向かう。すると、出口の外にはこの季節には珍しい光景が広がっていた。
 昼間でもぼんやりと照らされている提灯と、広い石畳の両側に並んだどこかノスタルジックな雰囲気も漂う屋台が鮮やかに軒を連ねている。それはかつて幼い頃に見たあの光景と、ひどく似ていた。思わず、小さく瞠目する。
「へえ~こんな時期だけど屋台とか出てんだなあ」
「三井さん、これも知ってて来たんじゃないの?」
「いや、全然?」
「……アンタ、こういうプラン計画する割にはそういう所おおざっぱだよね」
「なんだとぉ!?」
 口をとがらせる三井を眺めて肩をすくめる。
 珍しそうな口ぶりからするに、三井にとってもこれは本当に予想外のことだったのだろう。自分は三井に、幼少期や過去を詳しく話してはいない。だから、これは偶然に偶然が重なった出来事なのだ。


 浴衣じゃなく、ちゃんとした着物で。夏まつりじゃなくて梅まつりで。少しずつ違うけれど、なんだか絶妙な巡り合わせに言葉にしづらい感情が心を満たす。それは決してあの時感じたような黒ずんだものではなく、ほんのりと、春の陽気のような温度をもったものだ。

 両側にずらっと並んだ屋台は、同じく梅を見に来たであろう人達で大盛況の賑わいを見せていた。
「わたあめ、ヨーヨー釣り、焼きそば、射的……どれでもいいぞ」
「……?」
 唐突に掛けられた言葉に首を傾げると、三井はおもむろに近くのわたあめ屋で、今TVで放映されているのであろう戦隊モノの袋に入った綿あめを差し出してくる。
「えっと……」
「オレはお前のセンパイだからな。お前が欲しいやつ、なんでも買ってやる」
 そういえばこの人は、花道は勿論、自分達にもよくラーメンを奢ってくれるそういう気質のある男だった。不良時代に学んだのか元々そういう性格なのかはわからないが、こういう時に頑なに奢ろうとする。年上の矜持だなんて言って、今日は全部自分のおごりだと胸を張る様子と、差し出されたわたあめのギャップがなんだか可笑しくて、洋平は小さく吹き出した。


「な、なんだよ……」
「いや、なんでもない。本当に何でもいいの?」
「ああ、なんだっていいぞ!ベビーカステラでも、焼きそばでも……あ」
「……何?」
「焼きともうもろこし……でも、いい」
 香ばしい匂いのする方へ顔を向けて、じっ……とトウモロコシが焼けるのを見ている姿は、先程すれ違った小学生の男の子となんら大差はない。三井さん、どう考えたって食べたいんだろうな。


「えっと……じゃあ、まず焼きとうもろこしかな」
 そう伝えると「仕方ねえな!」なんて言いながらどう見ても嬉しそうな顔で屋台に近づいていくその184㌢の後ろ姿を見つめて、洋平は鼻から大きく息を吸い込んだ。


 息を吸って、吐いて。日々生きていくだけで、一年ごとに年齢を重ねていくだけで、何の感慨もない。それは十五歳になった今でもあの頃と変わらない。自分が生まれてきた理由もわからない。

 けれども今、もし自分が死んだら、この人は泣いてくれるんだろう。

 十五歳の春。そんな自惚れた気持ちも小春日和な気候の所為にして浸っていたい、今だけは。
もう少しだけ、生きてみてもいいかもしれないなんて、そう思った。







 <完>