【洋三】錆色の温度

※二人とも成人設定
※三井がその世界の原因不明の難病に罹っています
※病気は実際にあるものではなく捏造しています
※これはフィクションです。何かを推奨する意図は全くございません
※なんでも許せる方のみ





錆びついたフェンス越しに、どんよりとした灰色の空と薄暗い砂浜が見える。夏はどこまでも青く澄みきっていた海も、冬は何もかもを呑みこんでしまいそうなほどに暗く、重い。
ヘルメットを取った俺は、自分の後ろに乗せ、此処まで連れてきた人を振り返った。


「……三井さん、着いたよ」
寝ているわけではないのだろうが、静かに目を閉じている三井さんの肩を揺する。身体に堪えるからと何重にも着せてマフラーを巻かせ、服に顔をうずめるようにしていた三井さんは、俺の声にゆっくりと目を開けた。
「…み、と……ぉ……?」
どこかぼんやりとした顔のまま、三井さんがぽつりと呟く。冬の海岸は北風が容赦なく吹き荒れている。びゅうっと吹き付けるその風に三井さんが肩を震わせるので、俺は慌てて自分のマフラーを外し、ぐるぐると巻きつけた。
「大丈夫だって、そんなにヤワじゃねえよ」
「そんな事言って、昨日まで高熱でうなされてたのは誰なんだよ」
「誰だったかなぁ……忘れちまった」
「……都合のいいことだけ忘れるんだね、アンタ」
たしなめるようにそう返すと、三井さんは小さく笑った。

「そうだなあ、薬の副作用だから」

三井さんが処方されている薬は、いわゆる延命治療薬だった。
その薬を呑んだところで、完全に治ることはない。けれども、それを服用している間は、なんとか命を永らえることができる。点滴と人工呼吸器を付けてベッドに横たわる三井さんのそばで、そう医者に説明された時、俺は考えるまでもなく頷いた。
その薬は通常の保険が適用されないこと、高額の医療費がかかること。そんな説明なんてどうでもいいと思えるほどに、俺は必死だった。
どれだけ金がかかってもいい、三井さんの為なら、なんでもしてやれると思った。
彼が生き延びることができるなら、どんなに高い治療費だって、どんなに高額な薬代だって払ってやるつもりだった。俺がその分、必死に汗水垂らして働けばいい。三井さんの為なら、どんなにきつい仕事だって頑張れる気がした。

三井さんはきっと、生きることを諦めたりなんてしない。
いつも観客席から見ていた、三井さんの後ろ姿。汗だくになって、今にも倒れそうになってもラスト一秒まで諦めずバッシュを鳴らしながらコートを駆け巡り、美しいフォームでスリーポイントを決める姿。あの頃の自分はただ見ている側だったけれど、今回は違う。病気に負けない、またプロの世界のバスケ選手に返り咲く事を諦めない三井さんの支えになってやれる。そう思っていた。


ただし、その薬には大きな副作用があった。

その薬を服用して眠るごとに、少しずつ服用者の記憶が喪失していく。最初は些細な事だと思っていた『それ』が、どんどん現実味を帯びてくるようになった。

三井さんは、自分の得意なスリーポイントのシュートの打ち方を忘れた。
その次の日は、自分が所属していたバスケチームの名前を。さらにその次の日は、高3の夏のインハイの試合の思い出を。

三井さんが眠って起きるたびに、俺は少しずつ不安になっていった。
ひとつずつ、両手から零れ落ちる砂のようにはらはらと消えていく記憶。自分は決して顔には出さないけれど、きっといつか、自分が一番恐れていることが起きる。三井さんが目を開けてこちらをゆっくりと眺めて、不思議そうな顔をする。「えっと…貴方は …誰、ですか…?」無垢で残酷な言葉を呟く三井さんを想像するたびに、俺は『自分を覚えていてほしい』という酷く醜いエゴと、彼の命の間で葛藤してしまう。
このまま、三井さんがずっと生き永らえることができるなら、それでよかったはずだ。何の見返りもなく一番近くで支えてやれる、それが自分の幸せでもあると思っていたはずなのに。彼の中から、自分という存在が喪われてしまうことが、とてつもなく怖くなった。自分と三井さんが過ごしてきた日々が、すべて彼の中から消えてしまう。無かった事になってしまう。それを、自分は受け入れる事ができるんだろうか。
三井さんには生きていてほしい。でもこのまま、俺のことを覚えたままの三井さんのままで居てほしい……。なんて、そんな最低な薄汚れた気持ちを自分の心の片隅で自覚するたび、俺は自分を責めた。

そのうち、三井さんも薬の副作用に気づいたらしく、それからは一切薬を飲まなくなった。
俺がどれだけ怒っても、諭しても、三井さんは口を閉じたまま、絶対に服用しようとしない。料理に混ぜても、何をしても、絶対に薬を見つけて吐き出してしまう。
お願いだから飲んでくれ、そうじゃないと三井さんは死んじまうんだ。なかば懇願するように詰め寄ると、三井さんはぼんやりと笑った。
「オレは、全部を忘れて生きていくくらいなら、全部を覚えたままで死にてえ」
「……何言ってんだこの馬鹿野郎……ふざけてんのか?」
「ふざけてなんかねえよ、もう決めたんだ」
そういえばお前に『殺されてえのか』なんて言われたこともあったなあ、なんて三井さんが懐かしそうに呟いた瞬間、俺は肩を震わせながら、枕元に詰め寄って捲し立てた。
「俺や……花道達が…どんな思いで三井さんに生きててほしいと思ってると思ってんだ!!」


病人の寝間着をぐいっと掴んで喚いた。きんと耳鳴りがする。視野が狭くなり、喉がからからに乾いている気がした。この人の諦めている姿なんて絶対にもう見たくなかった。それなのに、自分のエゴがいつのまにか三井さんに伝わっていたのかもしれない。自分の事を忘れてほしくないだなんて、命と比べたら軽いそんな些細なことを一度でも考えた自分に吐き気がするくらい腹が立った。こんなことを三井さんに言わせてしまう自分の方が死ねばいいのに。


そんな俺の言葉にも、三井さんは静かに首を横に振る。
「水戸の気持ちは痛いほど分かってる。でも、コレはオレの命だ。……オレを生かそうとしてくれるその気持ちはすげえ嬉しい。でもさ、オレは……これ以上何かを忘れちまうのが怖い。……バスケを、あいつらを、家族を、……お前を忘れてしまうオレなんか、もはやオレじゃねえから」
「三井さん!!」
「どんなに怒ったって、殴ったって、オレは絶対に飲まない。…もう、決めたんだ」
「………お願いだ…飲んでくれ…頼むから……三井さん………」
「……頑固な恋人で、ごめんな?」

うなだれる俺の身体にをっと身体を寄せて、三井さんが静かに吐息を漏らす。三井さんの身体からは、心臓の音がすり寄せた身体から伝わってくる。トクン、トクン……とかすかに、でも確実に生きている音を立てている。でもこれが、このまま薬を飲まなければ、いつか止まってしまう日が来てしまうのだ。

「なあ、水戸……オレの最後の弱音、聞いてくれるか?」
「……何」
「オレさ、スリーポイントの打ち方を最初に忘れちまった事、すげえ悲しかった」
「……当たり前でしょ。だってアンタの……」
三井さんが俺の言葉を遮る。
「いや、ちげえんだ。……勿論、そういうショックもあったけど、それよりもオレは お前が『綺麗だ』って一番褒めてくれたシュートが打てねえんだって思って……スリーポイント打った後に見るお前のあの嬉しそうな顔、もう見れないんだと思ったら……これ以上に悲しい事ってあんのかな、と思った」
「っ………!」

俺は泣き崩れた。

このひとは、自分がこんなことになっても、どこまでも自分よりも俺のことを考えていて。そんな三井さんが狂おしいほどに愛おしくて、切なくて、どうしようもなくて、年甲斐もなく肩を震わせながら泣いた。三井さんは馬鹿だ、馬鹿野郎と暴言を吐きながら、俺はきつく三井さんを抱きしめて、そんな俺の背中を慈しむように撫でて、三井さんも泣いた。
泣いて、泣いて、涙が枯れ落ちるまで泣いて。
そのまま、俺達は抱きしめあいながら、眠りに落ちた。

いつかこの命に終わりが来るなら、それは天国から呼ばれるときじゃない。
自分たちで、二人一緒に終わらせてやる。
それは逃れられない運命に逆らうように。二人でこっそりと決めた約束。
神に逆らって、地獄に落ちたっていい。それが二人一緒なら、自分たちにとって辿り着く場所はどこだっていいのだから。




  ◇◇◇




「冬の海は、やっぱどことなく寂しいよな」
「そうだね」

ここ数日、ベッドに寝たきりなっていた三井さんの手をしっかりと握りながら、俺は波の打ち付ける砂浜をゆっくりと歩いた。湘南の海と違って、日本海側の海はより一層冬の厳しさを海の色に落とし込んだような深い色をしている。
曇天の空は、太陽をすっぽりと隠していて、打ち寄せる白い波の泡が立つたびに、かすかに磯の香りが鼻をくすぐった。あちこちには、冬の荒波で運ばれてきたらしい流木が転がっている。三井さんはふいに握っている俺の手ごと、頬に寄せた。

「俺の手、あったかい?」
「お前の手ってさ、冷たそうに見えていっつもすげえ温かいよな。初めて屋上でさわったときビックリした」
「そんなことあったっけ……?」
「はあ?忘れたフリしてんじゃねえよ」
「……ばれたか」


そのまま、互いに何も言わず近づくと、額と額とこつんと付けてゆっくりと目を閉じた。三井さんの唇が、鼻梁に落ちる。その次は俺の瞼に。くすぐったくて身をよじると、吐息だけで三井さんが笑ったのが分かった。瞳を開けると、すぐそばで柔らかな琥珀色の瞳がこちらを見つめている。その美しい光彩が、俺は何よりも好きだった。


「綺麗だな」
「ん?何が?」
「水戸の目。真っ黒で透き通って」
「………三井さんのほうが、もっと綺麗だと思うけど」
「今更口説いてんじゃねーよ……」
「本当だよ、俺も今……三井さんの瞳の色見てたから」
くすくすと笑ったままの三井さんに口づける。何度か角度を変えて、互いでほんのりと湿り気を帯びた唇を愛おしく感じる。白い息を零しながら、誰もいない砂浜で、俺たちはこっそりと誰にも見つからないように唇で熱を分け合った。






しっかりと繋がれた手と、足枷と重りを付けた足元には、押しては引いていく波の冷たさを感じる。

「……水戸、最後までごめん」
「なんで謝んの」
「だって……」
「俺はアンタと一緒に行く。そう決めたんだ。なら、三井さんがいう言葉はそれじゃないだろ」
「水戸……」
「…………」
「……ありがと、な」

胸のあたりまで水に浸かり、ぐっしょりと冷たい海水に濡れた状態で三井さんが小さくつぶやく。それに頷いて、二人でもう一歩を踏み出した瞬間、底に足が付かない感触がして、一気に全身が海底へと引きずり込まれていった。
ごぼごぼっと白い泡が口から零れては、海面へと のぼっていく。それと正反対に、どんどん海底に沈んでいく自分の身体が、まるで自分の物とは思えないほどに冷たく、感覚がなくなっていくようだ。三井さんと繋いだ手だけは温かくて、絶対に離さないように俺はより一層強く握りしめた。

(……みつい、さん……)

横を向くと、同じように口から空気を吐き出しながら、安らかな顔をしている三井さんが居た。俺がそっちを見ていることに気づくと、嬉しそうに笑う。

(ずっと、いっしょ……な?)

声は出せないけれど、口元の動きだけでそう読み取って、俺は頷いた。背中に手を回し、もう二度と離さないようにきつく抱きしめる。酸素が無くなって、ごぼっと水を飲みこんだ。苦しくて、息が出来なくて、それでも――。
恋人同士のように指を絡ませた俺達の薬指には、銀色の輪が鈍く光っていた。




自分達の運命を、神になんて決めさせてやるものか。
だから二人で、この一瞬を永遠にしてしまうことにしたのだ。




(完)