Subtitleなんてなくても

 冬の冷たい空気の中、駅前のバスケットコートに向かう自転車。後ろの荷台は、小さな段差でもおかしくて笑えるくらいに跳ねる。
 前でペダルを漕いでいる後輩の長い黒髪がはらはらと風に舞っているのを見ながら、三井は片手で右耳を押さえた。

 もうすぐ梅の咲く時期とはいえども、まだ寒暖の差が激しい。夕陽が西の空に落ちたあとの冷たい空気は、容赦なく短髪で遮るものがない三井の耳を切り裂くような切れ味をもった風となり通り抜けていく。
 上り坂が終わり、ゆるい下り坂となってより一層ジンジンと耳の奥まで響くような耳の冷たさに、三井は思わず声を漏らした。

「耳、いてぇ〜ッ!!」
「……?耳、すか」

 下り坂でペダルを漕ぐ必要の無い流川が、前を向いたまま小さく首を傾げた。そのあと、自分の中で何か合点がいったらしく「ナルホド」なんて呟く声が聞こえる。

「センパイ、髪ないから」
「おい、オレがハゲみてぇに言うな」

 流川の腹に回している両手をグーにして、冗談交じりにポコンと腹をなぐってやる。

「いてー。もう自転車こげねー」

 演技力がゼロを下回りマイナス10くらいのリアクションを返されて、三井は声を上げて笑った。そんなことをしているうちに、ぼろぼろのママチャリ……もとい流川号は、目的地の公園のコートに着いたらしい。
 キュ、と景気の良いブレーキ音がなり、三井も荷台から降りた。さっきまでの風はないものの、一度冷え切った耳は未だに痛む。ジンジンを通り越してキーンと耳鳴りでもしそうな勢いだ。

 去年は自転車じゃ無くてバイクの後ろに座っていても、こんな耳の痛さに悩まされたこと何てなかったのに。そこまで考えて、去年は髪が長かったことに気がついた。流川の先ほどの『髪ないから』の発言は由々しきモノだが、あながち間違ってはいなかったらしい。
 それにしても『髪ないから』は日本語が不自由すぎる。流川楓よりも、ペッパーくんやアレクサのほうがよく流暢に喋れると三井は常日頃思っている。 

「ワンオン。五本勝負で」
「分かってるっつーの、ちょっと待てって」


 散歩前の犬のように準備が早い流川をいなしながら、バッシュに履き替えるためにベンチに腰掛けた。
 ああ、それにしても耳が痛い。何か耳を温められる飲み物でもあればいいのに。屋外用のバッシュに履き替えた三井がふと顔を上げると、十数メートル先に、公園に常設されている自動販売機がほのかに点灯していた。
 これだ。
 すでに片手にボールを持って仁王立ちしている流川に財布を投げると、片手でキャッチされた。

「何、コレ」
「のーみーもーの!オレが準備してる間にあそこの自販機であったかいやつ買ってきてくれよ。味はなんでもいいから」
「何でもいいんすか」
「おー。耳いてぇのあっためたいだけだから、何でもいいぜ。コーヒーでもココアでも」

 そこまで言って、三井はふと、クラスの女子のほぼ全員が色めき立っていたドラマのワンシーンを思い出して、一言付け加えた。

「あ、コンポタでもいいぜ」

 そう返してバッシュの靴紐を締めようと屈んだ三井に、街灯に照らされた流川の大きな影が近づいてきた。
 おい、自販機はあっちだぞ。そう言おうとした三井の顔は、流川の大きな両手で側面を包まれていた。自分よりも少しだけ体温の高い手のひらの熱が、じんわりと三井に伝わってくる。その状況を理解するまでに、数秒を要した。

「…………え、何」
「ナニ、って……耳つめてーって言ったから」

 街灯がぽつんと灯っただけの静かな公園。片方がベンチに座って、片方がしゃがんでベンチに座っている人間の顔を両手で包み込んでいる。そんな……恋愛ドラマもびっくりな光景を男子高校生の二人が再現している状況に、三井は軽いめまいを覚えた。何が楽しくて、男の後輩とこんなシチュエーションにならなきゃいけないんだ。

「や、自販機で何か買ってこいって、オレは言ったんですけど?」
「自販機よりコッチのほうがはえーと思って」
「あ、そ……」

 確かに、このトンチンカンな構図は別として。熱すぎて痛いくらいの温度の缶よりも、人肌の丁度良い温度であたためられるのは悪くない。

 小さく息を吐くと、うっすらと白くなった吐息が夜の公園の空気に溶けて消えた。自分の耳を覆っている長い両手の先。流川の長い睫毛が、蛍光灯の光に照らされてうっすらと頬に影をつくっている。湘北高校の女子生徒なら垂涎モノのシチュエーション。さっきまではヘンテコだと思っていたけれど、180度回って自分が置かれていることがなんだか可笑しくなってきた。
 先ほどふと思い出した、クラスの女子達が噂していたドラマのシーンを再度、思い浮かべた。

「お前さ、この冬のドラマとか見てる?」
「全然」
「だろうな」

 三井がふは、と笑うと、また白い息が零れた。

「Silentっていうドラマがあってさ。オレのクラス、女子が昼休みにそのドラマの話ばっかしてんの。『三井も絶対見た方が良い』ってほぼ強制的に一話をスマホで見せられて。それからオレもなんとなく気になって見てんだけど」
「へー……」
「その中でさ。ヒロインが待ってる所に彼氏がやってくんだよ。で、悲しい気持ちになってるヒロインに向かって『コーヒーとココア、どっちがいい?』て聞くんだ。そしたらヒロインはさ『コンポタがいい』て言うんだよ」

「センパイみてー」
「は?オレ?」
「ワガママなとこ」
「はあ〜??……つーか、それはワガママじゃねーの!ってことは三話見たら分かんだけど……ま、それはいいんだよ。そんでさ、コンポタが良いって言ったヒロインにさ、その彼氏がリュックからコンポタ出してきて『コンポタもあります』って笑うんだよ。すごくねえ?」

「……それって、コーヒーもココアもコンポタも用意してたってこと?」
「そうそう。しかも『ごめん、ちょっとぬるいかも』とか言うんだぜ?あんな胸キュンシーンがあんのかよ、ってすげえ驚いたってクラスの女子に言ったら『三井も分かってくれたか!』て感極まってた」
「センパイも、その……『ムネキュン』とかするんすね」
「胸がキュンとする、で胸キュンな。お前絶対言葉の意味分かってねえだろ」
「……バレた」

 流川が少しだけ唇を緩めて笑ったのが分かった。
 きっとこの後輩は、壁ドンも顎クイも知らないのだろう。三井からしてみれば、流川のその表情のほうが女子達からすれば胸キュンだし、壁ドンや顎クイよりも攻撃力が高いと思ったが、敢えて言うのはやめた。流川が、何か思い出したように一人で小さく頷いている。

「……あ、それでさっきコーヒーでもコンポタでもいい、って言ったんすか」
「そうそう。でもお前、あったかい缶じゃなくて自前の手を貸してくるからびびった」
「……ソッチの方が手っ取り早えーので」
「なんかさ、そうやって色んな缶を買ってくる甲斐甲斐しい男……っていうより、そもそも用意して無くて自分の身体でどーにかするってのがお前らしくて良いと思うぜ」
「……ソレ、褒められてねーような気がする」
「オレも自分で言って、褒めてんのか貶してんのか分かんなくなってきたわ」

 三井は小さく笑って、街灯越しの夜空を見上げた。人工的な光が明るくて星のひとつも見えないところは、この世界がドラマじゃない現実世界なのだと思い出させてくれる。

 現実はドラマみたいに夜空は美しくないし、この場所で三井の耳を温めてくれているのは今をときめく綺麗な女優ではなく、ただの二つ下の後輩だ。それでも、こんな現実世界のことを、悪くないなと思える自分がいる。
 流川の手のおかげで、冷たく冷え切っていた耳は普段通りの暖かさを取り戻していた。もうジンジンとした痛みも感じない。両手で優しく流川の手首を掴んで、自らの顔の側面から外す。

「さんきゅ、だいぶあったかくなったわ」
「ウス」
「じゃ、ワンオンやるか」

 途端に、目の前の男が表情を明るくする。またしても散歩前の犬のように見えるその姿を心の中で微笑ましいと思いながら、三井はぐぐっと両手を夜空に向けて伸ばした。

「五本勝負」
「分かってるって!あ、流川。今日お前が負けたら、寝る前に『パンダ〈スペース〉落ちる』で動画検索しろよ」
「?ナンデ」
「これもドラマでやってたんだよ、一回言ってみたかったわけ」
「……まあ、負けねーけど」
「あ、言ったな?」

 目を合わせて不敵に笑う。ダムダムとドリブルの音がイントロのように小気味よいリズムを奏でている。二人のバッシュが同時にコンクリートの床を蹴った音が、夜の公園に響き渡った。





 翌日。朝練前にパンダが何匹落ちたか聞いた三井に対し「パンダ、落ちる前に寝てた」と流川が答える話は、また別の機会。






end