春ごといなくなる人へ


 江ノ島方向から吹いてくる強い風に黒髪がぶわっとあおられる。目の前をひらひらと舞い落ちるピンク色の欠片。
 薄く靄がかった春特有の薄い水色の空に舞っていくその花びらを、目線で追いかける。

「うわ!すげー……桜吹雪ってこーゆーのを言うんだろうな!」
「……ス」

 お前と違って、オレはもう大学生だからよ。オーダーメイドだと得意そうに話す入学式用のリクルートスーツ。風呂トイレ別・独立洗面台つきの学生用ワンルームマンション。
 春休み中の免許合宿で取ったらしい車の運転免許証を見せつけて、数分前まで一足先に大人になったような顔をしていたひと。
 きれいめなジャケットに細身のチノパンを纏った二つ上のセンパイが、小学生の子供みたいに駆け足で枝垂れた桜の下に潜り込み、ピンク色の欠片が舞う中をくるっとターンしてこちらを向いて笑う。
 桜吹雪ごときではしゃいで、どこがオトナだってんだ。喉のところまで出かかって、でもそんなことを言うと、今後一切この姿が見れなくなってしまう気がしてやめた。

 午後の陽光を反射する焦茶色の短い髪。歯並びの良い白い歯。ちらりと見える赤い舌。パステルカラー色のほわっとした春の景色に、彼の持つ色は何故か映えて見える。

「るかわぁ!早くこいって!」
「桜は逃げねーす」

 ゆっくりと歩いて近づいていくと、三井は向こう側をむいて、桜の木を見上げている。
 目の前の頭一つ分自分より小さな焦茶色の後頭部に、薄紅色の花びらが着陸しているのが見える。こっちを見ていないことを幸いに、少しだけ唇の端が緩む。流川は、その花びらの『髪面着陸』を黙秘することに決めた。

「桜の花びらの落ちるスピードって、秒速五センチメートルなんだってよ」
「へえ……」
「クラスでさ、アニメに詳しい奴がいて。卒業式の前に春休み見るのにオススメあるかって聞いたら教えてくれたんだ。かなりよかったぜ、遠距離になる二人が大人になって東京の街を歩いてるときに山崎まさよしのone more time,one more chanceが流れて」

いつでも捜しているよ、どっかに君の姿を
向かいのホーム、路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに

 少し掠れた心地よいテノールの歌声が流川の鼓膜を揺らす。鼻からすうっと息を吸って、ゆっくりと目を閉じた。

 その歌詞のフレーズは小さな針のように、流川の胸奥の風船をぷつり、と甘痛く突いた。
 風船の中にこっそりと溜めていた、隠していたはずの切なさが溢れて、身体中にめぐっていく。

 このひとは、無意識でひどいことをいうひとだ、と思った。
 向かいのホーム、路地裏の窓、明け方の街、桜木町。ギターの旋律で奏でられる郷愁。体育館の入り口、昇降口の影、部室のくたびれたソファー、自転車の荷台。こんなとこにいるはずもないのに、自分がこのひとの面影をふと捜してしまうことなんて、きっと知らない。

「桜ってよ、下から見上げるのが一番キレーなんだって」
「……そーなんすか」
「さすがのお前も、桜は見上げなきゃなんねーだろ?お前が見上げてる姿って、新鮮でなんかイイな」

 その言葉に小さく頷きながら、流川は斜め四十五度で顎を反らしている横顔を見つめた。色素の薄い、琥珀色の瞳が心地よさそうに細められる。空と桜を見つめる視線の先――首筋がしなるように陰影をつけている様子が、綺麗だと思った。
 桜なんて、毎年約束しなくても咲く。でも、このひとがこうやって桜を見つめる姿は、きっと約束しないと、もう二度と見れない。

「……センパイ」
「ん?」
「毎年、桜咲いたら一緒に見てほしーす」
「……いーけど、なんかそれ……プロポーズみてぇだな」

 ドラマのワンシーンかよ、なんて冗談めかした笑い声が響く。
 プロポーズだって言ったら、アンタどうするんだ。そんな言葉はまた、喉のところでつっかえて言葉にならなかった。 








end