追憶の君を包み込む

 江ノ島が右手に見える水平線が暁色に染まる先に、黒い毛玉がわさわさと飛び跳ねている。目を凝らして見ると、その毛玉は黒い毛並みをなびかせた大型犬のようだ。


 ついさきほどまで隣にいた男が、飼い主から借りたらしい手のひらサイズのボールを放物線上に投げる。野球のボールでもこのひとは綺麗に投げるのかと、流川はこっそりと思った。

 流川も犬が嫌いなわけでは無い。
 むしろ、どちらかというと動物は好きだ。だが、どうしてか自分は初対面の動物に好かれない自覚があった。
 犬には小さく唸られ、猫には毛を逆立てられる。さらには、つい先日、いま犬と戯れている二つ年上の先輩と水族館に行った時には『この水族館で一番人なつっこいです』と看板に書かれてあったアザラシのメイちゃんにまでそっぽを向かれた。涙をにじませるほど笑っていた甘栗色の髪の毛の男をじとり、と横目で睨んだのも記憶に新しい。

 何度かキャッチボールを繰り返しているらしい一人と一匹が、夕日に照らされて長い影を作っている。ふわりと浮かんだボールを、その大きな毛玉……もとい黒い大型犬が後ろ足でジャンプしてボールを掴む。
 飛び跳ねた姿が、今にも海に溶けて沈みそうな太陽と重なって、小さく目を細める。そのまま何度かまばたきを繰り返していると、気が済んだらしい男が、こちらにゆっくりと歩いて戻ってくる。

 何度かキャッチボールを繰り返しているらしい一人と一匹が、夕日に照らされて長い影を作っている。ふわりと浮かんだボールを、その大きな毛玉……もとい黒い大型犬が後ろ足でジャンプしてボールを掴む。

 飛び跳ねた姿が、今にも海に溶けて沈みそうな太陽と重なって、小さく目を細める。そのまま何度かまばたきを繰り返していると、気が済んだらしい男が、こちらにゆっくりと歩いて戻ってくる。


「すげぇ可愛かった~まだ三歳なんだってよ、あの犬。構って欲しい時期だから遊んでくれてありがとうって飼い主さんに言われた」
「……センパイが遊ばれてたんじゃねーんすか」
「うるせーな!一言余計なんだよお前は」


 ケラケラと笑うその横顔が、夕焼け色に染まっている。
 休日も二人で自主練をした帰り道。久々に海でも見ていくか。なんて自転車の後ろから聞こえてきて、駅に向かっていたハンドルを左に切り返した。防風林の並木道を抜けて、流川にとっては馴染みのある砂浜。地質のせいか、少し黒ずんだ砂は、三井のおろしたての白いスニーカーとよく映えた。もう少しで今日が終わってしまう。まだ帰りたくないと、そんな風に思った。

「犬ってさ、人の感情を読み取って共感する能力があるんだってよ」


 唐突に三井からかけられた言葉に、ゆっくりと横を向く。

「……そーなんすか」
「嗅覚がすぐれてるから?……なんか、人間が悲しいな~って思ってる匂いを感じ取れるらしい。どっかで聞いた気がする」


 それが科学的に本当か否かは別として、三井が自分だけに話す声色が好きで、流川は潮風の匂いを吸い込みながら黙って頷いた。


「人間同士でもさ、ああコイツつらいんだなあ~ってのは分かるけど。でも、人ってつい比べちまうだろ?その悲しんでるヤツと自分を比較しちまう。ペットが死ぬより人が死ぬ方が悲しいとか、年寄りより若い人が死ぬのが悲惨だとか。…………膝を壊すより、歩けなくなる人の方がよっぽどつらいとか」


 最後の喩えを呟いたあと、三井が水平線を眺めていた瞳をゆっくりとつむった。ざあ、と波打ち際の砂が、海にあおられて白い泡を立てる。


「お前の状況より自分の経験の方がつらかった。だから大したことないって励ましってさ、言われた方はどうしていいか分かんねえよな。よりつらくて、大きな悲しみがある……そんなことは分かってる。でも、悲しみやつらさって、勝ち負けでもないし、大小で何かの優劣があるわけじゃねえと思うんだ。……歩けなくなる人だって居るんだからって言われても、それはそうだってオレだって分かってる。でも、そういう、もっとでかくて大きな悲しみが他の人にあったとしても、本人の悲しくて空しい気持ちがそれで消えるわけじゃねえから」


 流川は砂浜に目線を落とした。おそらこの隣に居る男が、色々な人達に励ましという名の悲しみの秤量を一方的に与えられてきた事がいやでも分かったからだった。
 無遠慮な人間のそういう軽い言葉が、当時十五、六歳だったこの人にどれだけ無神経に塗りたくられたんだろうか。

 二度と歩けなくなる人みたいな顔しないで、またいつかバスケができるようになるよ。
 二回再発しても、また治せば良いでしょう。
 手術してリハビリしたらまた歩けるようになるんだから、まだマシだったって思わないと。
 膝を壊したくらいでバスケ部やめちゃうの?やりたくても二度と出来ない人もいるのに、諦めちゃダメだよ。

……人から悲しみの優劣をつけられるたびに、小さく俯く当時の三井の姿が見てきたかのように脳裏によぎった。


「でもさ、犬ってそうじゃねえんだ。人間から察した悲しみやつらさを、きっとそのまま受け止めてくれる。痛みがどの程度なのか、他の誰かより辛いのかなんて全部どうでもいい。隣に居る人が悲しんでいるから悲しい。悲しいから寄り添う。それだけなんだよな。だから、人間って犬に癒やされんのかな~なんて、思ったりする」
「……そ、すか」


 ざあ、ざあと橙色に染まった波が打ち寄せては返していく。

 流川は唐突に、茫々と、ただ、犬になりたいと思った。

 じっと横に居るだけで、この人の悲しいとか、寂しいとか、辛いとか、そういう感情を癒やすことの出来る存在になれたらいいと思った。


 嗚咽がもれないようにかみしめている三井の唇に鼻を寄せ、ぺろりと頬を舐めて、ふわふわの毛で包まれた身体をすり寄せる。お前、あったかいな。なんて少しだけ微笑んでくれて、つややかな毛並みに顔を埋めてくれたらいいと思った。そんな、ありもしない想像をしてしまうほどには、流川はこの二歳年上の、都合の良いときだけ大人ぶった顔をするこの男のことを好ましく思っていることに自分でも気づいていた。


 だからこそ、三井が続けざまに「でも、お前って犬っぽいけどな」と自分の心の中を読み取られたような言葉を口にした瞬間、思わず目を見開いて小さく肩が揺れてしまった。


「え、何?そんなびっくりするような事言ったか?オレ」
「……いや、別に。なんでもねー」


 落ち着くためにこっそり小さく息を吐くと、三井が半分ほど海に沈んだ太陽を見つめて、眩しそうに目を細めた。


「お前ってさ、あんま喋らねーし、何考えてんのか分かんねえときもあるけど。でもオレがしんどいなって思うとき、じっと何も言わずに側にいたりするだろ?ああいうとき、下手に声かけられるよりも、誰かがじっと隣に居てくれんのが一番助かるっていうか。まあ、……なんつーか、そういうの犬っぽいなって思っただけ」
「へー……」
「ん?ネコのほうがよかったか?でもキツネってイヌ科らしいし」
「どっちでもいー」

 そう、どちらでもよかった。三井が助かると思ってくれるなら、イヌでもネコでも……キツネでもなんでもいい。言葉で上手く感情が伝えられない分、この彼よりも大きな身体で側に居ようと思った。


 湘南の強い海風をくいとめるあの防風林のごとく、この人にふりかかる火の粉や無駄な色んなものからこの人を少しでも守ることができればいいと、そう思った。

□□□

「あとさ、さっきの犬、名前聞いたんだ」
「……何て名前だったんすか」
「何だったと思う?」


 勿体ぶりながら、三井が面白いモノを見つけたような顔でこちらを見る。


「あの犬、『カエデ』っていうらしいぜ?秋に生まれたからだってよ」
「…………」


 してやったり、という三井の瞳がにやりと細められる。


「まさかすぎて笑い堪えるの必死だったけど、確かにお前に似てるな~なんて思いながらボール投げたら、嬉しそうに飛び上がってくれんの。まるでお前をワンオンに誘ったとき見てえだなって思って……」


 饒舌に喋る三井の唇の端をかすめるように、ぺろりと舐める。最後まで言葉を紡げずにぎょっとした顔をして、すぐさま耳まで赤くなる姿に、若干溜飲が下がる。


「な!?お前いきなり何してっ……!」
「犬みてーなんでしょ?オレ」
「だからって本当の犬みたいな事しろとは言ってねーよ!」

 
 三井の唇は、ほんのり潮風とポカリの味がした。








end