タイムマシン十四号

 冬の選抜まであと二週間ほどにせまった十二月。
 一月ほどの芯から冷えるような寒さはないものの、やはり日が暮れると一気に肌寒さが増す季節になった。夏場では自主練を終えても夕日が落ちたばかりの薄青い空だったのが、今ではもうまるで夜の装いを見せる。

 今日の1on1は流川の負けだった。
 負けた方が体育館の掃除を含むすべての片付けをすることが決まったのは九月の終わりくらいだっただろうか。二人の中の暗黙の了解で、負けた方がへとへとに疲れて大の字に倒れていた身体をだるそうに起き上がらせて、無言で片付けを始める。
 その時だけは三井も「センパイだぞオレは!」なんてわめくこともなく、完全に拗ねた顔はしつつも粛々とモップ掛けをするので、後輩としたら珍しいものが見れるな、という程度には内心面白がっていた。
 そんなことを万が一にでも口に出すと、今後二度とその姿を見ることができないので、絶対に口には出さないけれど。

 体育館の施錠をしたあと、真っ暗闇にぽつり、ぽつりと灯る校内の街灯を頼りに部室棟を目指す。首筋に流れた汗が、冷たい風に吹かれて身体を冷やしていく。
 今日は片付けに時間がかかってしまった。鼻高々に勝者の笑みを浮かべて先に部室へと向かった三井はもう帰ってしまっているだろうか。
 今日は寒いし、もしまだ残っていたら、できればコンビニで肉まんでもおごってほしいところだ。駅前までのぼろぼろママチャリタクシーの御駄賃としてはどうだろうか。きっと機嫌は良いだろうから、片付けに時間がかかって腹が減った、なんて少々落ち込んでいる風味で訴えれば「しょうがねえなあ」なんてニヤニヤしながら財布を出してくれそうな気がする。
 流川楓、高一の冬――。バスケの事なら絶対に真っ直ぐ、へりくだる事や妥協は絶対にしないが、こと食べ物に関わる事なら少しだけクレバーなプレイも覚えた十五歳の冬だ。それは財布がゆるゆるの二つ年上のセンパイが多大に影響している。
「肉まん……」
 食欲という煩悩だらけで呟いたその言葉は、うっすらと白い吐息となって夜の闇にとけていった。



 部室のドアを開ける。すると、自分以外にもう一足、学校指定の革靴がすのこ張りになった入り口に置いてあった。まだ帰ってない。少しだけ胸の内側で炭酸が弾けたような心地になる。パチッ、パチン。なんだこの気持ち。自分の心の内側の反応にこっそり首をかしげつつ、小さな泡がはじけるようなむずがゆい気持ちは、きっと肉まんをおごってもらえる可能性が広がったから。たぶん、きっとそう。取り敢えず自分の中で納得のいく答えが出て、流川はバッシュの紐を緩めた。

 肉まんを奢らせようとしている張本人のセンパイ――三井は、部室の窓に向かって一心不乱に何かをしている。学ランは羽織ったものの、下はまだ履いていない状態なのに、だ。
 先に着替えを済ませることすら時間が惜しかったというのか。それにしても今はもう十二月だ。公立高校の部室に暖房器具なんて無い。寒くないんだろうか。

「……なに、してんスか」

 一応、聞いてみる。すると、上半身はきちんと学ランまで着て、下半身はパンツ一丁と靴下という奇妙な格好をした二つ年上の男は、身体ごとぐるりと流川のほうへ振り返った。
 三井の身体が振り返ったことで、流川の側からも窓が見えるようになる。外界との温度差で結露した窓に何かがびっしりと書かれている。「にやり」と効果音がつきそうな表情をした男は、堂々と言い放った。 

「サインの練習」
「…………」

 それは、今絶対にやらなければいけないことだったんだろうか。
 着替えを途中で中断してまで、やらないといけないことだったんだろうか。
 流川には分からない。分からないけれど、今自分は肉まんを奢ってもらおうとしている身だ。彼を不機嫌にさせてしまう言葉には注意しなければいけない。

「なあ、お前どっちがいいと思う?漢字とローマ字」
「……わかんねー……」
「だよなあ~どっちも格好良いから迷っちまうよなぁ」

 別にそういうわけではなく、単に自分の語彙力の限界で何も言いようがなかっただけなのだが。本人が満更でも無い解釈をしてくれているので、幸いにも三井の機嫌を損なわずに済んだ。

「漢字はプロ野球選手ってカンジするか?道端で立ったままユニフォームとかに書いたりするならこっちのほうが書きやすい気もするし……」
「……ユニフォームにサイン書く予定なんかあるんすか?」
「いや、ねえけど」

「………………」
「………………」


 流川と三井の間に、奇妙な無言の間が数秒間漂った。
 数秒間のはずが、ひどく長く感じる。さすがの三井も少々気まずかったらしく、わざとらしく咳払いをしながら、まだパンツ一丁だった下半身にやっと制服のスラックスを身につけている。
 ベルトをかちゃかちゃと鳴らして締めながら、三井が苦し紛れに呟く。

「予定はねえけど……でも、いつ何時サインを求められるか分かんねえだろ」
「……そーゆーモンなんすね」

「………………」
「………………」

 
 またしても流川と三井の間に奇妙な無言の間が漂いかけたところで、三井が小さく吹き出した。

「そんなワケねーだろ!ってツッコミ待ちだったんだけど、お前にはちょっと荷が重かったな。あんだけ沈黙が続いちゃおしまいだぜ。残念ながらお前とは漫才コンビは組めねえ、解散だ」
「ウス」
「うすじゃねーだろ!……あれ?オレがツッコミだといけんのかな?」
 いけるかどうかは流川には分からなかったが、三井が一人でウンウンと納得しているようなので黙って頷いておいた。

「……つーのは、まあ半分くらい冗談。今日授業中ヒマでさ、ノートにサイン書いてたんだけどこの二つで絞りきれなかったんだよ」
「へえ」
「だからお前に決めて貰おうかと思って」


 授業中が『ヒマ』であるわけは無いのだが、流川とて授業中の時間は睡眠時間にあてているため、何も言えない身だ。流川的にはどちらでもいいのだが、なんとなく日本語で書かれたサインを指差した。

「お、お前も漢字派?」
「なんとなく。センパイがそっち気に入ってるっぽいから」
「おし、決めた!こっちにするぜオレは」

 嬉しそうに何回も窓に同じサインを書いている後ろ姿を眺める。
 サインなんて直近で必要になるワケじゃないのに、なんでこんな真剣に考えてるんだろう。漫才コンビを組もうとしたり、サインを考えたり。自分より子供っぽいことをしたりするくせに、いきなり大人みたいな言葉をかけてきたりする。
 やっぱり、この人の考えている事はほとんど分からない。でも、不思議とそれでいいとすら思える。数秒後には何をするのか全く見当のつかないセンパイとのこの時間が、満更でもないと思っている自分が居る。

「なあ、お前のサインも考えてやろっか?」
「……それは、いらねーす…………」
「なんでだよ!三井センパイが直々に考えてやるってのに。お前、アメリカ行くんだろ?NBAとかでよくやるじゃねーか。今日のMVPの選手がサイン書くヤツ。あれ書けっていわれたらどーすんだよ」

 流川は一呼吸考える仕草を見せたあと、首をかしげた。

「…………そのとき考える?」
「疑問形じゃねーか!そんなんでサインなんか書けんのかよ」
「まあ、なんとかなる」
「その時にパッと思いつけんのかぁ?」
「頭の中で思いついたの適当に書くから大丈夫」
「お前、ほんとバスケ以外はワケ分かんねえな~オレの予想を遥かに超えてく感じするぜ」

 ケラケラと声を上げて笑う三井に、それはアンタもだと内心思いながら、流川は結露した曇りガラスに浮かんだそのサインをぼうっと眺めながら学ランに袖を通した。

「それはそうと、今日……帰りに肉まん食いたい気分じゃないすか?」
「あ?肉まん?」







◆◆◆


 そんな他愛の無い放課後の日常会話。当の本人の三井でさえ忘れていた、おおよそ十年前の出来事。
 それが今、本当に今、現在。
 リアルタイムで見ているNBAの試合で唐突に、三井は後ろから手で頭を叩かれるように鮮明に思い出した。

 本日のMVPであるカエデ・ルカワが一瞬の逡巡のあと、油性ペンで書いたサイン。それを見て、三井は時差も気にせず大声で叫んだ。

「それ、あん時オレが書いた、オレのサインじゃねーか!!!」


 本当に『適当に書く』を有言実行しやがった。
 しかもオレのサイン。三井が呆気にとれたままTV前で立ち尽くす中で、MCが流川に向かって何かインタビューをしているらしい。

「What would you most like to eat right now to celebrate your MVP?」
 同時通訳でスタッフから耳打ちされたらしい流川が、カメラ目線で口を開く。
「……肉まん」

 本場アメリカの地で、堂々とした流暢な日本語。スタッフが若干困っている。そりゃそうだ。英語にどう訳すんだろう。そんなことを考えているうちに、じわじわと笑いが込み上げてきた。
 三井は肩を震わせながら笑ったあと、どさりとソファーに勢いよく倒れこんだ。

「ほんっとアイツ、オレの予想を遥かに超えてくるよなあ!」


 漢字のサインがゆえに、アメリカ本土では何の疑いもなく『カエデ・ルカワ』のサインだと思われてしまい、公式の流川グッズであるマグカップやTシャツなどのデザインに使われてしまうハプニングが起こるのは、また別の話。






END