さよならバスはきみしかのらない

※前作の『放課後の音楽室』に少しだけ内容がリンクしていますが、読んでいなくても読めます。





「あお~げば、とお~とし~わが~しの~おん~」

 斜陽が擦り硝子の窓から差し込む午後。二人しかいない部室で、三井の歌声が響く。以前、合唱祭前『自分はピアノ伴奏だからオレの歌声を披露してやれねえのか惜しいなあ』なんて言っていた時は、またこのひとの悪い癖が出たと思っていたけれど、本当に歌が上手いのは知らなかった。けれでも素直に『上手ですね』なんて言う性格でもない流川は、わざと小さく肩をすくめてみせた。


「おい!センパイの美声が聞こえねえのか」
「自分で美声って言うの何か違うと思うけど」
「はあ~?お前、そんな事言っていいのかよ」
「……何」


 にやにやと、まるでいたずら狐の尻尾を掴んだような顔で三井はこちらを見て笑っている。
「誰だったっけなあ~?せっかく心優しいこの三井センパイが歌の指導してやった後輩は……」
「……でも学年で優勝した」
「へえ?優勝かあ~めでてーなぁ?ちなみにお前はどのパートだったっけなあ?テナー?バス?あんなに練習見てやったもんなあ、さぞかし美声を披露したんだろうなあ?」
「………………」
「なあ流川ぁ?」
「…………指揮者っす」


 途端、三井の笑い声が部室内に大きく響いた。無論、二人だけしか居ない室内では誰も気を咎めることはないのだが、流川本人としては、かなり気にくわなかったらしい。

 事の顛末としてはこうだ。最初はひな壇で合唱パートを担っていた流川だが、やる気のなさなのか、それとも才能パラメータをすべてバスケットセンスに振り切って生まれてきた為か……誤解を生まないよう端的に、率直に言おう。音痴だったのである。


 涼やかな見た目と真逆の歌声を奏でる流川は、一年十組の委員長をひどく悩ませることとなった。そして結論としては、流川楓を指揮者にすることでクラス全員が満場一致したのである。『流川くん、四拍子は刻めるよね……?』。半泣きになった委員長に詰め寄られ、流川もさすがに申し訳なくなった。でも、指揮者というものが自分に務まるのかすらわからない。思わず隣にいた石井に助けを求めると『流川、ゆっくりしたドリブルをすると思えばできるんじゃない?』とのアドバイスで、なんとか合唱祭当日も無事にこなすことができたのだった。

 ピアノを弾きながら歌の練習に付き合ってくれたのも、この目の前に居るセンパイであったし、ワンオンワンのあとにドリブルで四拍子を刻む練習をゲラ笑いしながらも見守ってくれたのもこの男だった。だから、流川としては強く出れないところはあるのだが、そこまで大声で笑うことはないんじゃないか。

 そんな表情で流川は三井を睨む。三井は目尻に浮かんだ涙をぬぐって、大きく深呼吸した。これ以上笑ってやると、本気で彼のご機嫌を損ねかねない。
「はー、何度思い出しても笑えるわ……たぶん十年後に思い出話しても笑うと思うぜオレは」
「…………」
「あーはいはい悪かったって!もう言わねえよ」
「……ていうか、なんでそんな曲歌ってるんすか」
「明日だからな、ソツギョーシキ。自由登校だから大学のバスケ部で練習ばっかしてたからよお、リハーサルすら出てなかったんだよ。今日久々来たら机の中に楽譜入ってた」

 三井は、大方の予想をはるかに裏切るような形で、見事スポーツ推薦での大学進学を勝ち取った。

 体育館に悠々とやってきて『オレはやっぱ≪持ってる≫男なんだよ!』なんて上腕二頭筋をポンポンと叩きながら余裕綽々といった様子で合格通知を見せてきたが、流川を含め後輩は全員、受験直前までの青白い顔をしていた彼を知っていたので、まるで母親のような気持ちで合格を喜んだのだった。
 それからは大学の部活に慣れるため、高校のバスケ部に顔を出すことはほぼ無くなってしまった。

 卒業式までは一緒に居られるなんて自分に都合のいい想像をしていた流川は、いやというほど思い知らされたのだ。どれだけ頑張っても、年齢だけは追いつくことも、追い越すこともできない。いつだって自分よりも先の人生を歩いているその背中を、自分は見つめている。それは自分がアメリカへ留学すれば変わるのだろうか。
 そんな未だ不確定な未来すら想像して、どれくらいの速さで駆け抜ければ、彼に追いつけるのかと希〈こいねが〉ってしまうほどに。



 部室のベンチに座ったまま俯いてしまった流川の横へ、三井が腰かける。
「お前さあ、『仰げば尊し』の歌詞ちゃんと知ってた?」
「……なにが?」
「オレさあ、さっきちゃんと楽譜見るまで『我が師の恩』のこと、ずーっと『和菓子の恩』だと思ってんだよな。中学の頃さ、良く分かんねえまま歌ったけど、なんでソツギョーするときに饅頭に対して恩義を感じなきゃなんねえんだろ。でも昔の曲だからそういうもんか。なんて思ってた」
「…………っ……」
「あ、ちょっと笑っただろ今!」
「……笑ってねー」
「まあいいや。流川、饅頭はこしあん派?粒あん派?」
「粒あん」
「マジかよ……オレ断然こしあん派なんだけど!」
そんなところまで噛み合わねえなあ、なんて三井が快活に笑う。
「まあそんなことはどーでもいいんだけどよ、本当の歌詞知ってさ、本当に『我が師の恩』だなあと思ったんだよなあ」
「…………」
「安西先生が居なかったら、あの時……オレがバスケをまた始めてなかったら、今どうなってるのか全然分かんねえ。あらためて、本当にバスケから逃げずにまた戻ってきてよかったって、今すげえ思ってるよ」

 部室の天井を見つめながら、三井が自分に言い聞かせるように呟く。うつむいたままその横顔をちらりと見やって、流川は少しだけ悔しくなる。『我が師』だけじゃなくて、もうちょっと感謝するべき対象もあるんじゃないかと、そう思うのだ。
「……『我が師』だけじゃなくて『後輩の恩』は?」
「後輩の恩ぅ?」
「ワンオンワン、付き合ってあげた」
「はあ~!?お前がオレに感謝するところだろーが、それは!」
「オレは感謝してる。だから『先輩の恩』。でもセンパイも感謝してほしい」
 流川がぐっとつめよると、三井の意志の強そうな大きな瞳がくしゃりと細められた。

「お前のその図太さ本当に一生忘れねーわ」
「……うん、忘れないで」
 また一歩、三井の近くに寄った。窓から差し込む夕日の光で、三井の顔は逆光になっている。それでも、少し驚いたような顔ははっきりと見えた。
「……流川?」
「オレの事、ずっと思い出せばいい。センパイが大学に入学しても、オレがアメリカに留学しても。バスケットコートを見るたびに……オレの事、思い出して」
「な、に……お前、いきなり……」
 手首をぐっと掴まれて、そのまま流川の方へよろめくように身体を傾けさせられる。
「好き。……センパイのこと」

 そこにはいつも通り、憎たらしいほど整った顔で、しっかりと三井を見据える姿があった。
 後輩のくせに可愛げなんてものは1ミリもなくて、笑い合うよりは、どちらかといえば生意気だと顔を顰めることの方が多かった。三井が悪いとはいえ、体育館を襲撃した時に最初に自分を殴ったのもこの男だった。


 普段は何を考えているのか一切分からなかった。それでも、同じバスケットボールを追いかけている間は、相手の事が何よりも理解できた。バスケ部に復帰してから、悔し涙も沢山流した。苦しいことも沢山あった。むしろ、練習や試合で楽しかったことなんて一握りあるかどうか分からない。
 でも、その楽しいことの一握りには、いつだってこの生意気な後輩が居た。

 体育館の四角形に囲まれた白線の世界で、それ以上近づくでもなく、離れるでもなく。自分たちは少しずつ、恋をしてきたのだ。


 手首をぐっと掴まれて引き寄せられたままの三井が、大きく溜息をついた。
「……お前さあ、最後に言うとか……なんで今日なんだよ」
「最後じゃねー……です。これから始めたいから言った」
「……あと一日はぐらかしたら、ただの先輩と後輩のままで居られたじゃねえか……」
「ただの先輩と後輩のまま居たくねーから、言った」


 三井がまた溜息をつく。何度呆れられたって、何度言い訳をされたって、流川は三井が首を縦に振るまでいつまでも、何年でも待つつもりだ。『お前なんて嫌いだ』と言われるまでは、いや、言われたとしてもきっと自分はこの男の事を諦めることができない。そう、思った。

「お前さあ……ホント、そういうとこ……強情だよな……」
「今更なこと言う?」
「……確かに」
 三井が呟いて、うつむいたまま小さく笑うのが分かった。その表情を窺いたくて流川が覗き込もうとすると、ぽすん、とやわらかな髪質が頬をくすぐった。
 流川が手首を引っ張っていた先ほどまでとは違い、三井の身体が自分の意志で流川の肩に寄りかかってくる。左肩の心地よい重みを感じながら、流川はゆっくりと、右手で凭れ掛かってきた男の後頭部を撫でた。

「――――――」

 小さく返事をした三井越しに差し込む夕日の光で、部室にゆるく舞う埃がきらきらと輝く。
二つ年上のセンパイからは、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りがした。