「ゴリラでも飲めるモン買ってきてやったぜ」
したり顔の三井の思惑通りに怒るのが馬鹿馬鹿しくなって、赤木は小さく溜息をついた。
この男と同じ土俵に立って話すから毎回言い合いになるのだ。今は木暮も居ないし、公共の場だ。あまり騒ぎにはしたくない。
赤木は三井の両手が掴んでいるプラスチック製の、上がドーム状になっているカップを眺めた。三井はその視線をどう受け取ったのか、ふふんと鼻を鳴らす。
「バナナフラペチーノ。期間限定のやつだったから。お前もゴリラだしバナナ好きだろ」
一度、ゴリラ扱いを無視されたくらいでは諦めないらしい。ネバーギブアップ。粘り強い気持ち。そんな精神はバスケットボールだけにしてほしい。
テーブルに置かれたそれにストローを刺して一吸いする。口の中にバナナの甘みとホイップクリームが広がる。確かに美味しいが……端的に言えば、甘い。これが自分の妹であったなら、大層喜んだであろう味だった。
「おいゴリラ、バナナうめぇか?」
「……甘ったるすぎる」
この男に世辞など言っても仕方が無い。歯にもの着せぬ言い方で返すと、「せっかく買ってきてやったのに」なんてブツブツいいながら三井もストローに口をつけた。
「はあ?うめえじゃん!お前奢ってやったのにイヤミかよ」
「オレには合わんだけだ。……アイスコーヒーは置いていないのか」
「ここの店じゃコールドブリューっていうんだよ」
つっけんどんに三井が言い返してくる。それに対して眉根を寄せかけたが、ふと我に返った。赤木とて、三井が自分を何の用事もなしにこんな所まで連れてきた訳では無いことぐらいは分かっているのだ。
学校では無くこんな所まで自分を連れてきた理由――。三井の言いたいことは、おおよそ分かっていた。
「……お前、国体の神奈川県選抜の推薦、断ろうとしてるって聞いたぜ」
だからこそ、三井が俯いてストローをくるくると回しながら言われたその言葉にも、やはりか、という気持ちが一番最初に湧き上がってきた。
「受験勉強が忙しい。……そう、安西先生には伝えた」
「……ばっかじゃねえの」
俯いたまま、吐き捨てるような三井の声音は尤もだと思う。
神奈川県内のバスケットボールをしている高校生の代表として、国体に出れるチャンスなんてもう二度と無い。それは文字通りの意味でもあるし、自分が高校三年生というふたつの意味合いでもあった。
「受験、受験、受験……。そればっかりかよ、お前」
「そればっかりって言われてもな。そればっかりだろう、高校三年生の夏以降なんて」
それでなくとも、自分は幸運にも夏のインターハイまで現役を続けられた。一日でも長くバスケットを続けていたい――それはまぎれもなく赤木の本心だったが、赤木がバスケに情熱を傾けている間にも、現役を引退した学生達は受験勉強へとシフトチェンジしていく。
勉学をおろそかにしていたつもりは一切無いけれど、やはり放課後をすべて勉強に注ぎ込める学生と比べられるのはかなりきつい。しかし、受験とはそういうものなのだ。そういう意味では、赤木はかなりの遅れをとって受験勉強をスタートしたと言えた。
……正直、焦っていた。
国体選抜の推薦は、本当に誇らしく嬉しい。けれど、そうやって自分がまたバスケットに夢中になっている間に、他の学生に成績で追い抜かされてしまうのではないか。現状、志望校判定模試も楽観視できる判定ではない。いわば落ちるか受かるかの線上に居るといっていい。そういう不安と焦りが、つねに赤木の心を急かしていた。
「お前、分かってんのか?……もう、こんなチャンスねえんだぞ」
「……分かっている」
「高校三年生なんだぜオレたち。あとで後悔したって遅いんだ」
「……それも、分かっている」
「分かってねえ!」
三井の右手の拳が、ダン、と机をたたいた。周りの迷惑にならないよう、控えめな音が響く。それでも、三井の激昂している様子は伝わってきた。
「……お前は、なんも分かってねえんだよ、赤木」
琥珀色の意志の強そうな瞳が、赤木を射るように見つめている。
「高校三年生、……なんだよ。もう最後なんだ。人生で、もう二度とオレ達はこの十八歳のこの季節には戻れねえ。どんなに泣いたって、自分に苛ついたって、自己嫌悪になったって、高校生活は戻ってこねえんだ」
赤木の脳裏に、ボロボロになって体育館の床に蹲ってバスケがしたいと泣いていた目の前の男がよぎる。この男――三井は、自分よりも木暮よりも誰よりも、『後悔』した高校生活を送ってきた。
「『やった後悔』は良いんだ。自分が決めたから納得できる。でも、『やらなかった後悔』は、一生引きずることになるんだぜ」
だからこそ、絞り出すように呟かれる言葉が、誰よりも重く響く。誰よりも、『やらなかった後悔』を引きずっている男だ。
「三井……」
「お前が100%後悔しねえって、本当にバスケより勉強したいって思ってんならオレはこんなこと言わねえ。でも、お前……今どんな顔してんのか分かってんのか?自分で」
どんな顔してる、って、自分の顔なんだから分かるわけ無いだろう。
その言葉は、どうしても言えなかった。自分でも分かっていた。……情けない顔をしていることくらいは。『受験勉強が忙しい』といいながら、どうしても頭の片隅にバスケットボールがちらつく。他校の精鋭と神奈川県のユニフォームを纏って試合をしている自分の、夢のような姿。国体には出たい。でも、国体に出たことでまた他の受験生に後れを取ってしまったら……?志望大学に落ちてしまったら……?そんなことをずっとずっと考えている。
推薦の話があってから今日まで、まるっきり勉強に集中できていなかった。
「赤木、お前さあ……バスケがしたくて泣きそうな顔してんだよ、今」
「……たわけ、泣くわけ無いだろう。お前の方がよくピーピー泣いてる」
「ハア?お前も結構試合中に泣いてんだろうが!お前の方が絶対オレより泣いてるね」
「お前だ」「いや絶対お前の方が泣いてる」……そんな小学生のようなやりとりを数回繰り返して、三井はおおげさに溜息をついたあと、しょうがないな、という様子で苦笑した。
「オレ達、なんで毎回こうなっちまうんだろうな」
「……知らん。まあ八割方お前がつっかかってくるからだろうが」
「へーへーすいませんでしたぁ」
音を立てながら残りのフラペチーノをストローで吸い上げて、三井は一息つくと、またしても真面目な顔をして赤木を見つめた。
「大学受験が大事っつーのはオレも分かってる。でもよ、自分の気持ちに素直になるのも大事だと思う」
「……ああ」
「オレは後悔しまくりの高校生活だった。だから最後くらい悔いなくやりてえから、冬の選抜まで残ってる。一分一秒でも長くバスケがしたい。だから国体も出る。大学はどうなるかは分かんねえ。でも今自分が本当にやりたいことを続けていって、……まあどこにも拾われずに浪人生になるとしても、それはそれで仕方ねえと思ってる。後悔は一ミリもねえからな」
「後悔、か……」
「赤木、お前にはオレみたいな後悔して欲しくねえんだ。だから……、その……なんていうかよぉ………」
「お前にしては歯切れが悪いな」
「うるせえ!……はあ、ぜってー笑うなよ!…………オレとまたやろうぜ、バスケ」
照れくさいのか、目をそらしながら言われた言葉に瞠目する。
一年生の頃、入部届を出したときの彼の姿と重なる。同級生ではあったが、三井とバスケができたのは、復帰してからを足しても半年ほどだ。一年にも満たない。それでも、スタメンでコートに立ち続ける選手としては、自分以外の唯一の三年生だからこそ、背中を預けることもできた。
この男のバスケセンスには一生敵わないと思ったことは絶対に言ってやらないけれど、そのくらい、赤木とて三井のバスケを認めていたし、リスペクトしていた。
赤木の中で驚くほど三井の言葉は、ストン――と心に落ちてきた。思考がクリアになっていく。
そうだ、自分は本当は国体に出たかった。またこの男とバスケがしたかったのだ。
三井に言われて、初めて気づけた。
自分が今、……今しかできないことは、コレなのだと。
「……国体、前向きに考えることにする」
「……!」
三井が弾かれたように顔を上げて嬉しそうな顔を一瞬見せたあと――すぐ仏頂面の顔に戻る。
「ま、まあ?そーかよ」
「飲み物までご馳走になったからな、助言は聞いておく」
素直に「ありがとう」と言えない自分のことなんて、三井は重々分かっているんだろう。ニヤニヤとこちらを見つめてくるのは若干居心地が悪いが、まあやぶさかではない。
「次はアイスコーヒーを奢って貰いたいが」
「だからコールドブリューって言うんだっつーの!」
三井の軽快な笑い声が心地いい。
ぬるくなったはずのフラペチーノが、何故かさっきよりも美味しいような気がした。
end