神奈川県選抜 国体合宿当日。
いつもより一時間早い起床時間も、品行方正真面目一徹な長谷川一志にとっては遅刻など有り得るわけもない。きっちりと午前五時に目を覚ました。スマホのアラームを止め、静かに起き上がる。肩をぐるり、と回して、ベッドから立ち上がった。
母親が用意してくれた朝飯を平らげ、昨晩から用意していたキャリーケースに必要なものを忘れていないか確認する。じゅうぶん時間に余裕をもったおかげで、ゆったりと駅までの道のりをキャリーケースを引きながら歩くことができた。
定刻通りにやってきた電車に乗りこみ、海南大付属高校を目指す。今日から始まる国体合宿の集合場所が海南だからだ。そこからバスに乗り込み、合宿所を目指す。
自分が選抜メンバーに選ばれるなんて、長谷川にとっては思ってもみなかった朗報だった。中学の頃の自分では可能性すらなかったのだから。それだけ、高校三年間で積み重ねてきた努力が実を結んだのだと思うと、少し嬉しくはなる。しかし、それと同時に長谷川の脳内には、ほろ苦いインハイ予選最後の試合が浮かんでくるのだった。あの、三井寿を五点以内に抑えると豪語し、挙句の果てに大量得点を取られ、惜敗したあの一戦。その悔しさを晴らすべく、冬の選抜に向けて翔陽は一層奮起しているわけだが……。そこまで考えて、長谷川はふとスマホを取り出した。
それは長谷川の毎日のルーティーンだ。
アカウントを本名のアカウントから、『K』というハンドルネームの方へと変える。フォローしているのはただ一人。『みぃくん』というアカウントだ。ぱっとタイムラインが変わり、みぃくんだけだけが表示されたそのツイートの未読の所から時系列に追っていく。すると、今朝も画像付きでツイートが投稿されていた。公共の電車内だと思いながらも、長谷川の口はうっすらと笑みを浮かべていた。
今日の『みぃくん』も最高に可愛い。
長谷川が『みぃくん』を見つけたのは、本当に偶然の事だった。フォロワーの誰かが『いいね』をしたのか、通常のアカウントでいきなりタイムラインに出てきた、いわゆる……裏垢男子というそのアカウントに、長谷川は何故か目が離せなくなってしまったのだ。
綺麗に鍛えられた身体、どことなく自信気なツイートの書き方。通常の裏垢男子だと異性をターゲットにしているのだろうが、この『みぃくん』は男女どちらにも人気があるようだった。ツイートで自分はノンケだと主張している割には、男と思われるアカウントにも嬉しそうにリプライを返している様子が、ツイートのツリーを辿ると分かってくる。性格的に、チヤホヤされるのが好きなんだろうか。
どことなく自信家なところも、HNも三井寿を連想させた。HNなんて、実名と全く違うのだからあてにはならない。それでも、なぜか長谷川はそのアカウントの事が、ずっと頭から離れないでいた。
そして『みぃくん』を見つけた一週間後、長谷川はついに『みぃくん』にリプライを送る専用の『K』というアカウントを作るまでに至ったのだった。
今日の『みぃくん』のツイートには、すでに沢山のリツイートといいねが付いていた。
首から下だけを移した下着姿の写真。下着を穿いてはいるものの、少し光沢めいた黒のボクサーパンツのそれは、身体のラインにぴたりと沿うようなデザインになっている。今日の下着はドルチェアンドガッバーナというブランドらしい。最近は写真を撮るだけでブランドを特定してくれるアプリもあるので助かっている。
少ししか見えない背景からでも分かる、裕福な家の様子。高層階のタワーマンションのモデルルームのようなファブリックがしつらえられたベッドにゆったりと腰掛けているその男。無駄な所がひとつもなく鍛えらえているその身体は、ベッドに腰かけていてもはっきりと腹の筋肉の隆起が見て取れる。そのくせ、腰はきゅっとくびれていて艶めかしい。
――みぃくん@裏 今日から合宿。今日の下着もイイだろ?合宿だから更新できねぇけどいい子で待っててな
写真と共につぶやかれた、ぶっきらぼうの中にも自己顕示欲がにじみ出ているそのツイートに、今日も自分はリプライを送る。
――@miikun0522 今日も身体エロくてかわいい。合宿いってらっしゃい。
やっぱり『みぃくん』も何かスポーツをやっているんだ。自分と同じく今日から合宿なんて、ちょっと運命的なものを感じてしまう。『みぃくん』にとって自分――……『K』はひとりの熱狂的なファンに過ぎないことは分かっている。それでも、こうやって自分の中で思っているだけなら……許されるだろう。
そんなリプライを送って物思いにふけっているうちに、海南大の最寄り駅に到着する。駅に降りると、二両先あたりの同じ電車に乗っていたらしい、湘北高校のジャージ姿の背中が見える。二年の宮城、一年の桜木と流川。そして。
甘栗色の短い髪の毛をくしゃりとかきながら、眠そうに歩く後ろ姿……。三年の、三井寿――。
『みぃくん』も合宿だというし、数日のツイッター更新は無いだろう。けれども、長谷川にとって、あの三井寿と四六時中一緒の合宿というのは、きっとこの機会を逃すと一生ないかもしれない。偶然巡ってきた機会を、有意義に過ごさなければいけないのだ。一旦、『みぃくん』のことは忘れて、バスケに集中しよう。
長谷川は晴れ渡る秋空を見上げ、静かに一人頷くのだった。
一日目の夜、合宿所の大浴場で三井寿を見かけるまでは――……。
国体合宿練習初日。またの名を高頭力’sブートキャンプ。
海南大から一台のバスで向かった合宿所で荷物を下ろして早々に、一同は体育館へと向かった。神奈川選抜の指揮を執るのは海南大の高頭監督だ。翔陽でも毎日厳しい練習はしているつもりだが、基礎トレーニングからじっくりと下半身の筋肉繊維一本一本をじわじわと苛め鍛えるような練習内容に、海南大以外のメンバーはへとへとに疲れ切ってしまった。
選抜でもキャプテンを任せられた海南大の牧が、屍のように寝そべって動かなくなっている三井を宥めている。
「三井、そろそろ起き上がらないと合宿所の夕飯に間に合わなくなる」
「あと五分くらい待てよぉ~!」
「お前も湘北で唯一の三年生なんだから、しゃきっとするべきだ」
「わかってるっつーの!だからあと五分待てって言ってんだろぉ!」
大の字になって体育館の床に転がったまま、三井寿がぜえぜえと息を荒げながら海南の牧に恨みがましい目を向けている。「つーか海南は……こんなこと毎日やってんのかよ……」と三井がブツブツとつぶやいている。長谷川も立ち上がれてはいるが、大腿筋に乳酸が溜まって怠くなっているのをひしひしと感じる。明日は確実に筋肉痛だろう。さすが常勝軍団の練習というべきか。この練習方法は翔陽にも取り入れるべきかもしれない。今日の夜に藤真と花形に相談してみようか。
長谷川がそんなことを真面目に考えている最中でも、三井はまだウダウダと寝転がったままらしい。「このまま連れてってくれたりしねえ?」「無理なこと言うな、先に行ってるぞ」。キャプテンの牧とそんなやりとりをしているのが考え事をしている中でもうっすらと聞こえてくる。先ほどの練習は下半身にかなり効果がありそうだが、ちょっとハードすぎる。やはり身体が出来上がっている三年生は良いが、一年生にとっては少しハードすぎるかもしれない……。少しずつ負荷を上げていくやり方で身体に慣れさせていくほうがいいか。長谷川が思考をめぐらす外側で、誰かが声を荒げているのが右耳から左耳に通り抜けていく。「……おい」「なあ、聞いてんのかあ?」「おい!長谷川!」。長谷川の目の前、ずいっと二重幅の広い垂れ目が顔を覗き込んでくる。
「……!」
「何ボーッとしてんだよ、皆行っちまったぜ?」
長谷川がふと顔を上げると、すでに体育館からほとんどの選手は出て行ってしまっているようだった。シンと静まり返った体育館には、自分と三井寿しか居ないようだ。
「あ、ああ……悪い」
「オレ達も行こーぜ」
三井の手には束になった鍵が握られていて、じゃらじゃらと揺れている。
「牧のヤロー、オレに鍵渡して戸締りしとけだっての。あいつキャプテンだろぉ?ちゃんとそういうの責任もってやれっての」
「まあ、俺達が遅かったから、な。合宿所に帰っても牧にはやる事があるだろうし……」
「まあそ~かもだけどよ……」
三井は口をとがらせながら、体育館の扉を施錠している。いかにも不服ですといわんばかりの表情に、長谷川は気づかれないよう小さく笑った。大人びたような容姿とは裏腹に、やけに子供っぽい所もあるんだな。なんて、絶対に本人には言えないけれど。
中学で対戦したときなんて、武石中の三井寿といえば同世代のスーパースターだった。キャプテンでエースで県MVP。バスケセンスに溢れ、人望もある。何もかも完璧で自分とは何の接点もない、ただ一方的な憧れの同級生。そんな男とこうやって二人で合宿所まで帰っている自体、なんだか不思議な感覚がする。
そういえば、『みぃくん』も合宿初日を終えたんだろうか。みぃくんも日本のどこかでこうやって汗を流しているのだろうか。『みぃくん』の画像の更新は無いと言っていたけれど、もしかしたら日常ツイートはしているかもしれない。夕飯が終わって風呂から上がった自由時間で、タイムラインを確認しなければいけない。できれば、『みぃくん』の新しいつぶやきが見たい。きっとこの疲れた身体には、日常ツイートだけでも染み渡るから。
十分ほど歩くと、合宿所のホテルが見えてくる。三井は小さな石ころをサッカーのように蹴りながら(まるで小学生のようだ)隣を歩いている。
「はー……この道のりがつれぇ……」
「あともう少しだぞ、三井」
「まじでしんどすぎるだろ……夕飯いらねぇんだけど……」
「食べないと明日動けないぞ」
「分かってんだけどよぉ……こんな汗ベタベタで食堂行くの無理だろ……あ、そーだ」
何かをひらめいたらしい三井が、長谷川の方を見てニヤリと笑う。
「なあ、夕飯の前に先に風呂入っちまわねえ?」
「……行動表には夕飯のあとに風呂、と書いてある」
「お前ってマジで真面目なんだな。べつによぉ~夕飯は個々にバイキング形式って書いてあるし、一気に夕飯で一気に風呂!ってなったらどこも混むだろ。どっちかっつーと半分ずつに分けて夕飯⇒風呂組と風呂⇒夕飯組って分けた方がよくねえ?」
「……まあ、確かに……」
三井の言う事に一理はある。
「だろぉ?男くせえ奴等が一気に大浴場に駆け込んで、ぎゅうぎゅうで風呂入んのか?ぜってーやだね!」
「まあ、それも……確かに……」
大浴場にゆったり浸かれることに越したことは無い。だが、決められた事から逸脱する行動をとるのは、何となく憚られてしまう。長谷川一志、十八歳。どこまでも真面目に真面目を重ねた男であった。
しかしそんな長谷川に、三井は畳みかける。
「オレが牧に『先風呂入る』ってLINEしとくから。怒られたらオレの所為でいいし。……な?」
牧のLINEを三井は知っているのか、だとか。自分も三井のLINEを知りたい……だとか。三井はなぜ自分を誘ってくれるんだろう、だとか。自分と共犯でいいのだろうか、だとか。色々な感情が頭を巡った挙句……長谷川は小さく頷くのだった。
「おお、綺麗じゃん!」
先ほどまで体育館の床に這いつくばっていた男とは思えないほど、弾んだ声を上げて三井は大浴場を見渡した。比較的新しい施設なのか、合宿所……という響きから連想されるイメージより遥かに綺麗な佇まいをしている。
「牧とは連絡が付いたのか?」
「ああ、別に風呂から入ってもいいし、確かに風呂前半組と後半組で分けた方がいいなって感心してたぜ?」
どうだ、と言わんばかりに三井が得意げに鼻を鳴らした。
「三井寿サマの機転ってヤツだな!そう思うだろ?」
「あ。ああ……」
こういう言葉に、どう反応すればいいか分からず曖昧に頷く。所謂、ノリの良さ……というものを持ち合わせていない長谷川が、三井が満足するような上手い返しを出来るわけもなく。
「……ま、いーや。早く風呂入ろうぜ」
三井はつまらなさそうな顔をしてこちらをちらりと横目で見たのち、上半身のジャージを豪快に脱いだ。
きゅっと引き締まった胸筋と腹筋。凹凸がなめらかについた腹はさすがアスリートと言ったところか。二年間のブランクがある男とは思えない身体つきだ。腰のあたりの筋肉は少し衰えたのか、それとも元から付きにくいのか、なめらかな曲線をえがいてくびれている。まるで『みぃくん』のような触り心地の良さそうな腰と背中のラインがとても綺麗で……。自分もTシャツを脱ごうとして裾を持ったまま、長谷川は有り得ない『既視感』にピタリと動きを止めた。
……あまりにも、『みぃくん』と似すぎている。
いや、そんなわけはない。運動部で、学生で、今日から合宿だなんて青年は山ほどいるだろう。野球部かもしれないし、サッカー部かもしれない。バレー部かもしれない。そんな、同じ神奈川でバスケ部で国体の合宿に来ている訳が無い。日本全国にごまんといるそんな青年の中のただ一人、『みぃくん』がこんなに近くにいるわけがないだろう。そう思うのに、三井の上半身から視線を外すことができない。
激しい運動をしているわけではないのに、頸動脈がドクンと脈打つ音が聞こえる。いやまさか。そんな。自分の勘違いだ……。そんな長谷川の気持ちなど露知らず、三井は勢いよくボトムのジャージをずり下ろした。
控えめな光沢の、黒いボクサーパンツ。ゴム部分には英語でブランド名が書いてある。それは……今朝、長谷川がタイムラインで見たものとそっくりの――。
「……ドルチェアンドガッバーナ…………」
「え!?長谷川、お前知ってんの?」
震える声でブランド名を呟いた長谷川に、三井が大きく反応する。
「いいだろコレ!合宿初日だから気合入れようと思ってよお。新しいのおろしてきたんだ」
自慢気に笑う三井の声が、ぼうっと遠くから聞こえてくるような気すらする。
まさか、本当に……三井寿が『みぃくん』だったなんて。
まさか、三井寿があんなアカウントを作って、夜な夜な規制ギリギリの写真を上げているなんて。
あんなアカウントを、誰が知っているというんだろう。いや、そもそも、誰にも教えてないからあんなことができるのだ。
……長谷川は、ぶるりと身震いした。
知っているのだ、自分だけが。
三井寿の、裏の顔を。
誰にも知られなくない、自己顕示欲の塊のような卑しいい姿を。
男にエロいといわれて、チヤホヤされて、喜ぶような裏の姿を。
「……長谷川?どした?」
ハッと我に返ると、すでにすべて脱ぎ終えた三井が、腰にタオルを巻いて心配そうにこちらを見つめていた。
「いや、何でもない。俺もすぐに入るよ」
「おう、先行ってるな!」
湯気が立ち上る大浴場の扉が閉められたのを確認して、長谷川は震える手で三井の脱衣カゴを覗いた。
ダークグレーの着替え用の下着が置かれた奥に、くしゃりと丸まった黒いボクサーパンツ。それを手に取り、両手で広げた。
「……『みぃくん』、なのか……?」
当たり前のように答えは無い。けれども、こんなにも偶然が当て嵌まることなんて、現実にあるのだろうか。
長谷川は暫く考え込んだのちに、ポケットからスマートフォンを取り出した。いまだ微かに震える手で、その下着を撮影する。そして、『K』のアカウントのツイッターを起動させた。
――@miikun0522 ちょっと確認したい事があるのですがDMを送っても……
そこまでリプライを打ち込んで、長谷川は逡巡した後その全文を消した。
理由は、『みぃくん』の正体が絶対に三井寿だと100%の確証が持てないのが半分。そして、あとの半分は。
「……三井寿は、俺だと知らずにKのリプライを喜んでくれる……」
三井寿は、自分が『みぃくん』だと長谷川にバレていることを知らない。長谷川が『K』だということも知らない。自分がここでリプライをしなければ、誰にもバレていないと高をくくって、これからも更新を続けていくだろう。それを、自分はほくそ笑みながら見つめる……。
それは何にも代えがたい、人生で一度も味わったことのない甘美な遊びじゃないか。
沸き立つ高揚感のまま、長谷川は手に握った下着をそっと元の場所に戻す。自分も服を脱ぐと大浴場の扉をガラガラと開いた。
「おせーぞ!何してたんだよ」
「ああ……ちょっと、色々あって」
扉が開く音で、自分が入ってきたと気づいたらしい。湯からのぼる白い湯気と、カポンと響く心地よい湯桶の音。
こちらに背を向けながら頭を洗っている三井の後ろ姿は、『みぃくん』と瓜二つの綺麗な肩甲骨が隆起している。
その後ろ姿をじっと見つめながら、長谷川はうっすらと微笑んだ。
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以下、K(一志)が送ったアマギフとDMのスクショです
※お遊びで作りました