2022流川楓誕生日小話

――夢を、見ていた。



 湖畔の表面を揺らす微かな風。森の奥深くにあるその湖の表面に、沈むわけでもなくふわふわと浮かんでいるような心地。三井はその世界で、ぼんやりと揺蕩っていた。
 何も聞こえない、自分しか居ないその空間。ああ、これは夢だ。そう思って目を瞑る。湖畔の小波に身を任せて、またふわりと混濁する意識の中で、それは小さく聞こえてきた。

 耳を澄ませないと、聞き逃してしまいそうなそれ。その旋律はどこかで聞いたことがあるような、ないような……。
 いや、自分は……この歌声を聞いたことがある。それはもうずっとずっと昔のこと。セピア色になってしまうような学生の日々。晩秋の音楽室で、白黒の鍵盤を自らの手が音階を奏でて、それに合わせて小さな声で唄を紡いだ二歳下の後輩のまるい後頭部を思いだす。

 少しだけ切なくて、でも……とてもやさしい。
 そのうたの正体が知りたくて、三井は夢の中でゆっくりと手を伸ばした――。

「……んっ……」
 うっすらと目を開けて、ゆるく瞬きをする。見知った天井と、落ち着く香りのする白いシーツ。丁寧に掛けられた毛布と布団。もぞもぞと手の甲でまぶたをこすると、こちらの様子に気づいたらしい同衾の男が、ゆっくりと近づいてきた。
 艶やかな黒髪、涼し気な目元は変わらないものの、学生の頃よりも精悍な顔つきになった二歳下の後輩。
「……ごめんなさい、起こした?」
「いや、勝手に目が覚めただけだから気にすんな」
 三井の声は、数時間前まで睦み合っていた名残で、少し掠れていた。それに気づいた三井が照れくさそうに笑うと、流川も同じように眦を少し緩ませる。流川の手が高校よりは伸びた三井の前髪を梳くと、三井の喉が甘えたように鳴った。

 最初の出会いは最悪なものだった。道場破りのように体育館に襲撃し、土足で床を汚し、バスケットボールに煙草を擦り付け、唾を吐いた。
 最初に自分を殴ったのもこの男だ。あの頃の自分は、流川のこんな風に触れているなんて考えもしなかっただろう。
 あれからインハイ予選を経て、暑い夏が過ぎ――……冬を越え、流川の本心に触れた。バスケットボールと睡眠以外に興味など無いと思っていた男からのまっすぐで純真すぎる好意は、未だにこそばゆくて恥ずかしい気持ちになることがある。

 三井は小さく微笑みながら、すり寄ってきた流川の腕に触れた。
「なんか、夢の中で……歌が聞こえてきたような気がしたんだよな」
「……やっぱり、オレが起こしたかも」
「え、本当にお前が歌ってたのかよ?」
 三井は意外そうに、カラメル色の瞳を丸くさせた。強制的ならまだしも、流川が歌を口ずさむような陽気で朗らかな面を持っていたなんて、あまり想像できない。三井がよほど変な顔をしていたのか、流川が小さく笑った。
「そんなに意外?」
「ああ。だってお前が歌ってるなんて高校の時のさあ、合唱祭の前に音楽室で練習した時しか知らねえし」
「……懐かしい」
「本当にな」


 元旦の夜更けは、二人で寄り添っていても肌寒い。三井は横に寝そべっている流川の身体に寄り添いながら、口元に毛布を手繰り寄せた。今日の月は、カーテンを引いていても、布越しに光を部屋に届けるほどに明るい。白くはっきりとした輪郭の月が、雲一つない空に浮かんでいる。
「懐かしいな……お前、あの時より全然上手くなってんじゃねえか。あの時は散々でよお……ミツイセンパイがマンツーマンのレッスンしてやったんだよな」
「オレの練習って言ってるのに、全然違うピアノの曲弾き始めて偉そうな顔してくるから面倒だった」
「……おい」
「ウソ。本当はピアノ弾く先輩、綺麗だなって思ってた」
「……そ、そーかよ」

  

 いつのまにこの男は、寡黙で無口で生意気な少年から、恋人を口説くような大人になったのだろう。照れくささに毛布にもぞもぞと潜りながら、三井は流川を盗み見た。
「でもよ、さっき歌ってたの合唱祭のときのやつじゃないだろ?」
「……なんか、よく分かんないけど歌えた」
「どっちかっていうと、子守歌みたいな……?感じだったよな」


 三井の手が、流川の身体にそっと触れる。手のひらで、ゆっくりと頬をなぞる。そのまま首筋にふれて、鎖骨に手をすべらせ、最後は背中に腕をまわした。甘えるようにそのまま、そっと身体を寄り添わせるようにして、三井は呟く。
「お前の歌声……夢の中でも聞こえてた。なんか切ないような優しいような……ほっとするような声だった」
「センパイ……」
「だから、もっと聴かせろよ」

 お互いに生まれたままの姿で見つめ合うと、どちらともなく、そのまま静かに唇を重ねた。決して夜の営みのように性急ではなく、互いの存在を確かめ合うような、幾度となく唇を軽く食み合わすようなそれ。
 小さな息が漏れる。甘く湿度を持った吐息は室内の空気に溶けて、二人の時間を満たしていく。互いの熱をやさしく分け合うようなその行為のあと、三井は静かに瞳を閉じた。

「子守歌みたいなそれさ、多分だけどよ……おまえの母さんがずっとお前に歌ってくれてたものなんじゃないかなって、オレは思うんだよな」
「……全然覚えてないけど」
「当たり前だろ、赤ん坊なんだから。でもよ、そうやってお前の中にずっと、どこかに残ってたんじゃねえかなと思う」

 三井はそっと思いを馳せる。
 この男が、もっともっと小さい頃のこと。母親の中で眠っていた時のこと。大きく膨らんだ腹を嬉しそうにさすりながら、並木道を散歩していた流川の母親のこと。美しい色彩で舞い落ちる紅葉を見て、もしかしたら『楓』と名付けることになったかもしれない……なんて、自分が知る由のないことを勝手に想像してみる。

 彼の母にとって、自分という男とこうやって添い遂げている事は、きっと普通に想像していた息子の未来予想図ではなかっただろう。それでも、息子の一番の幸せを考えて背中を押した彼女の事を、美しく強い女性だと三井は思う。

「お前の母さんにお礼を言わないとな」
「……何を?」
「お前を産んでくれて、ありがとうって」
「……うん」
「こうやって、一緒に居ることを認めてくれて、ありがとうって」
「うん、今度言いに行こう。……一緒に」
「……そうだな」
 もう一度だけ口付けると、流川は三井の胸元に額を沿わせながら静かに瞼を閉じた。

「……おやすみ、流川」

 もしもその日がやってくるならば、彼の母親に色々な事を聞いてみたいと思う。

 黒髪がふわふわとそよ風になびき、薄紅色の頬をしてゆりかごの中で眠っていた頃の事を。
 まだ甘いミルクの香りがして、ふわふわとして、誰かに守られないとすぐに途切れてしまうような命だった頃の事を。
 そんな存在をいつくしみ、愛し、自分で人生を歩き始めるまで育て上げた、『貴女』の事を。

「……うまれてきてくれて、ありがとな」
 先に眠りに落ちた流川の前髪を梳きながら、三井は小さく呟く。


 今日、流川楓という男が生まれた日。
 夢の中でも、夢から覚めても。この男の人生が光り輝くものであることを、願ってやまない。
 三井はそんな祈りに似た気持ちを込めて、流川のこめかみのあたりに優しく口付けた。

 

 ――かみさまが愛をおしえた――

 






   END