この男のことは、苦手だ。
すべてを見透かしたような眼で、自分を見つめるから。
「三井さんさあ、他のバスケ部の奴らよりよく来てくれるよね」
「そう、か……?」
桜木が入院している総合病院。その最上階に併設された外来と見舞客用のカフェからは、見晴らしの良い景色が見渡せる。
江ノ島の灯台を上から見下ろしながら、三井はわざとしらばっくれてみせた。病室で桜木と話しているといつものように水戸が現れて、桜木のリハビリの時間になったので帰ろうとしていた自分を、引き留めたのはこの男だった。
この男のことは、苦手だ。
何を話したら良いか、分からなくなるから。
桜木や他の面々と大勢で居るときのはしゃいだ年相応の姿と、今こうやって自分の横でホットコーヒーに口をつけている姿と。どっちが本当の姿なんだろう。
「花道が喜んでた。ミッチーがよく来てくれるんだって。晴子ちゃんからの手紙も持ってきてくれることがあるから余計にだって」
「それ、赤木妹の手紙……を持ってきてるのが偶然オレってだけだろ。イヌがエサ貰う前にベル鳴らされたら、ベル鳴るだけで嬉しいってやつ」
「パブロフの犬?」
「そう、それ。オレはいうなればエサ貰う前のベルなんだよ」
三井が冗談でそう揶揄すると、水戸は小さく声を上げて笑った。
この男が、自分の前で笑ったのは初めてだった。涼しげな眦がふっとやわらぐ。
そういえば、面と向かってこの男に向けられた感情は、あの体育館の日以来、なかったように思う。
勿論、三井はあの一件を謝ろうとしたのだが、桜木に「アイツら全然気にしてねえから」と言われて、なんとなくそれ以上、その話題について敢えて食い下がるようなことはなくなってしまった。それもまた、この男と二人きりになるのが居づらい理由のひとつにもなっているような気がする。
水戸はマグカップを持ったまま、ガラス越しに見える風景を眺めている。それからゆっくりと三井に向かい、小さく微笑んだ。
「三井さんはベルなんかじゃないよ。花道が喜んでるのは本当。あいつ、元気なフリしてるけどやっぱり結構落ち込んでて。バスケがやりてえのにできない。もどかしさってやつ?オレには分かってやれない部分があるし、そういうの、三井さんと喋ってると落ち着くみたいでさ」
「そう、か……」
ふわっと浮かぶ安堵と、ほんの一匙、ぴりっとした罪悪感。それを誤魔化すように、結露したアイスティーのグラスの氷をストローでまぜかえした。カラン、と小気味よい音を立てる。
「だからさ、三井さんがオレと居るときだけそうやって何か深刻そうな顔してたら、バスケ選手から見て、花道のケガの治り具合が本当はあんまよくないんじゃ無いかって思っちゃうんだけど」
「え?」
思いもよらぬ角度からの返しに目を数回またたいて、それから三井は小さく吹き出した。
「あ~そういうことな。わりぃ、それでオレを呼び止めてこんなところで喋ってるワケか。桜木の背中の具合はかなり……つうか普通の人間の二倍くらい回復速度が早いんじゃねーかって思うくらいだ。国体合宿には間に合わねえけど、大会にはギリギリ補欠で帯同できんじゃねえのかな」
「そうか、よかった」
「ああ。スゲーよアイツは。オレとは全然違う。全然へこたれてねえし、心も折れてねえ。安心しろよ」
「……『オレとは』?」
「あー……いや、その……」
水戸が自分をここへ引き留めた理由が分かって、言わなくて良いことまでぽろっと口からこぼれてしまう。
案の定、見た目よりかなり聡明な頭の持ち主のこの男が気づかないわけも無く、復唱される。しまったと思っても、もう遅い。
三井は数秒逡巡したのち、小さく溜息をついた。
「……アイツが、オレみたいに寂しい思いさせたくなくてさ。誰も来ない病室って、すげえ広くて、すげえ孤独だからよ」
消毒の香りがする白で統一された室内を見ると、十五歳の自分を思い出す。
ベッドに寝転ぶ赤栗頭が、自分のあの頃と重なる。自分だけが、この四角い世界で取り残されているような感覚。壊れた膝なら、新しいものに替えられれば良いのに。
機械のように部品交換をして、体育館を何の痛みもなしに走り回っている夢を何度も見た。でも、現実は違う。人間は、機械のように交換してオーバーホールなんてできない。目が覚めると、使い物にならない膝がついたままだ。それでも、今日こそ普通に歩けるんじゃ無いかと思って微かに膝を曲げて、神経をさざ波のように走り抜けてくる痛みに失笑する。
ああ、今日も昨日と同じ一日だ。
自分だけが一生『一回休み』で、他の皆はどんどんゴールへとすすんでいく。スタート地点でとおせんぼを食らった自分のことなんて、もう、誰も覚えていないんじゃないか。
そんな気持ちを、桜木には一瞬たりとも味合わせたくなかった。自宅に帰る方向と同じだからと理由をつけ、バスケ部の近況を報告し、皆がお前を待っていると、しつこいくらいに言い続けた。
「でもそれってよ、桜木の為じゃねえよなって。アイツの為に……って自分に言い聞かせて、結局これは十五歳だった自分を成仏させる為にやってんだって気づいて」
あの頃、一人でシーツにくるまって啜り泣いた自分を、自分で慰めたいだけ。そう気づいたら、途端に恥ずかしくなった。桜木を通して自分のエゴを満たしている自分自身に、罪悪感が募った。
病室で水戸と出会うたび、そういう自分のみすぼらしい行動原理まで、この男に見透かされているんじゃないかと思って、無意識に避けるようになった。
この男のことは、苦手だ。
……いや、苦手だと思おうとした。自分のために。
水戸は、三井がぽつりぽつりと話す言葉をじっと聞いていた。決して茶化したりせず、じっと、三井の焦茶色の瞳を射貫くように、ずっと。
「三井さんってさあ、本当に真面目だよね」
「……グレてたの知ってんだろ、どこが真面目なんだよ」
「そういうことじゃなくてさ。心の根幹?みたいなものが」
少し太陽が傾いて、橙色の光がガラスを通して差し込んでくる。色素の濃い黒髪が、太陽の光に照らされているのが綺麗だと、純粋にそう思った。
「みんな自己満足を満たしたいだけじゃないのかな、この世の中ってさ。相手の心情なんて分からないし、自分のものさしで動くしか無いでしょ。自分の為にやったことが、相手の為にもなってる。それでいいんだって割り切ってるけどね、オレは」
「でもお前は――」
「体育館のこと?アレは別に三井さんの為に機転を利かせたんじゃ無いよ。別にあのときのオレは、三井さんがどうなったってよかった。可哀想な人だなとは思ったけど、別にそれだけ。バスケ部を守ったわけでも無い。オレはあのとき、ダチが惚れてる女のために夢中になってる部活を廃部にさせたら、バスケ以外に接点ねえし、おのずと晴子ちゃんとの縁がなくなっちまう。そんでまた花道がジメジメしだして面倒くさくなるからああ言った。ただそれだけ」
だから三井さんがオレに謝ろうとしてるって花道から聞いて焦ったよ。水戸が冗談めかして笑った。
「三井さんの為にやったことじゃないのに、謝られたら気まずいだろ?だから、花道に『絶対阻止してくれ』って頼んだわけ」
本人の目の前で『アンタのためじゃない』と言えるこの男のすがすがしさに、三井は声を出して笑った。そこはお世辞でも『三井さんのため』と言うところじゃないのか。その忖度のなさに爽快感すら感じる。
いつのまにか、この男のことを苦手だと思う気持ちが無くなっていた。
「自己中で、エゴイストなくらい自分のことだけ考えてていいんだってコト。それがもしかしたら誰かを救うかもしれねえし、救わねえかもしれねえ。でも、それくらいの気持ちで良いんじゃない?少なくとも、三井さんのその『エゴ』で、花道は救われた」
その言葉に、かみしめるように小さく頷く。
年下なはずのこの男の言葉は、不思議なほどに自分の心の奥に染み入る。『バスケ』という共通事項のない水戸との会話は、どこか三井の周りに居る人間とは違う新鮮さがあった。
「まあ、オレも三井さんのためにやったことじゃないことで、こうやって得するわけだけど」
「……?」
何を言われているのかまったく分からない。首をかしげた三井の横で、水戸が悪戯を思いついた子供のように笑った。
「バスケ部存続の危機を救ったってコトで、おごってよ。コーヒー一杯分」
END