うだるような残暑が残る夕方、駅で弟を見かけたのは本当に偶然だった。
平均的な身長よりあたま一つ分飛び抜けている後ろ姿。無造作な黒髪が、到着電車の吹き込んでくる風になびいて毛先が揺れる。
艶やかな黒髪は私共々、親譲り。その滑らかな髪質に見劣りしない顔面が付いているという事実は、楓という人間がこの世に生まれ落ちて十五年――……私が一番近くで見てきた。だからこそ、駅を行き交う人が弟をしげしげと眺めていたり、女性がぽおっとした顔つきで見つめているなんてことは日常茶飯事。私だって特に今更、そんな些細なことに気を留めたりなんかしない。
ただ今日は、その弟の横に同じくらい平均身長から飛び抜けた後ろ姿があった。
楓より色素の薄い、焦げ茶かかった髪の毛は、短く切りそろえられている。アスリート然とした容貌は、弟よりもよっぽど爽やかでスポーツマンといった所だ。
それにしても、楓が誰かと居る所なんて珍しいな。あの子は身長と顔面の良さとバスケットボールへの才能を与えられた代わりに、その他をすべてポンコツにされたような男だ。というか……あの弟のことだから、おそらくその他も神様から与えられたに違いないのに、産まれてくる時からヌボーッ……としていて、母親のお腹の中に置き忘れてきたに違いない。
バスケをしている以外では眠っているか、眠そうな顔をしているかで九割を越える。姉から見てもそんな朴訥とした、家の中では大木のウド……もしくは冬眠間近のクマのような男。そんな弟が世にも珍しくしっかりと目を開けている。なんてことだ、明日はこんなうだるような真夏にもかかわらず雪が降るかもしれない。
というよりも、楓が駅に居ることがすでに珍しい。
弟の通う湘北高校は、自宅から自転車で数分のところにある。陵南や海南……数々のバスケ強豪校からの誘いを「湘北高校が家から近いから」という理由で断った弟が、家と反対方向の駅に、しかも嫌いであろう人混みの中でしっかりと目を開けて立っている。もはや奇跡では無いだろうか。コレは絶対お母さんに報告しないといけない。私の中に謎の義務感が生まれた。
流川家の長女。楓と半分ずつ与えられるはずだったしゃべくり能力を、全部お前が持って行ったと揶揄される女。母親と並んでワンツートップの口数を誇るかしまし娘である自覚はある。
うだるような暑さと大学帰りの気怠い身体に鞭を打ちながら、私は人でごった返している駅を、弟が佇んでいる方へゆっくりと近づいていった。
一歩、二歩、三歩くらい近づいたところで、横を向いた弟が何かを喋って、そのあと、隣に居る楓と同じくらいの身長の高校生が顔をくしゃくしゃにして笑っているのが見えた。
待って?……大笑いしてる。まさかとは思うけど、楓が喋ってそんな面白いこと言ってるの?ちょっと待って、にわかには信じがたい。
かの男は、漫才グランプリの決勝を見ても眉毛ひとつすら動かさない男だ。『冗談』とか『ジョーク』なんかと対極の位置にいる男が言ったことを聞いて、爆笑してる……?世にも奇妙な光景を見てしまった気がして、夏なのになんだか寒気すらした気がする。
私が思わず立ち竦んでいると、駅のホームのスピーカーから、横浜方面行きの電車が近づくアナウンスが流れた。それを聞いた楓の隣に居た高校生は小さく頷くと、楓の肩をぽんと叩いた。その片手をひらっと振ると、そのまま改札へと歩いて行ってしまった。
嗚呼、あと一歩遅かった。楓が人を笑わせている……なんて怪奇現象に思わず軽く慄いてしまった私の落ち度だ。悔やまれる。
うなだれる私なんて知りもしない楓は、忠犬のように、その相手の姿が見えなくなるまで後ろ姿をじっと見つめていた。「センパイ」と、楓の口が動いた気がした。ん?センパイ?年上……なのかな。気さくに話していたから同級生かと思ってた。
駆け足で近づく人影を視界の端で捉えたらしい。弟がこちらを振り向き、コンマ一秒もたたない間に表情を渋いものへと変えた。まあそれはそう。家以外で姉弟に会って嬉しい十代なんてSSRだ。
「か~えでくん♡」
「……何」
「こんなところで会うなんて奇遇だね!たしか帰る方向一緒だよね、途中まで一緒に帰ろうよ♡」
私の芝居かかった少女漫画みたいなセリフに、さも面倒くさそうな顔で溜息をつかれる。ソコは「途中どころか帰る家一緒じゃねーか」と言って欲しかった所だけど、そこまでのリアクションをこの弟に求めるのはいささか荷が重い。
駅のロータリーの所に、楓の愛用している自転車が止まっている。高校入学時に買って貰った新しいロードバイクじゃなくて、中学の頃から乗ってるぼろぼろのママチャリ。
白色のロードバイクを気に入って、入学当初からそればっかり使っていたのに何の心境の変化なんだろう。まあいいや、鞄乗せられるし。
ママチャリの前カゴに同意もなく重たいテキスト入りの鞄を投げ入れた。楓の反論は無い。姉のすることは『絶対』だと幼少期から教えている教育の賜物だ。私は身軽になった身体をぐぐっと伸ばした。
無言で楓が歩きながら自転車を押している。カラカラと古く錆がかったチェーンが回る音が夕焼け空に響いている。私は、さっきから気になっていた疑問を口にした。
「さっき駅で喋ってた人、だれ?」
「……部活のセンパイ」
「へえ~バスケ部の?そーなんだ。二年生?」
「三年生」
「え、そーなの!?三年生ってまだ部活引退してないんだ?」
「三井先輩だけ。他の人は引退した。センパイは冬の選抜まで残るって。まだバスケしてーし、バスケで推薦取りてーらしい」
「へ~三井くんって言うんだ……」
そういえば……とうっすらと思い出した。楓が全国大会に出るからって私まで広島に駆けつけた七月末。遠くから見ていてもヘロヘロのバテバテなのははっきりと分かって。でも、そんなにもバテバテなのにここぞ、という時に決めるシュートがすごいなぁと思った記憶がある。
「あ、ユニフォーム14番だった人だよね?」
こくり、と楓が頷く。うん。やっぱりそうだ。あの人だ。ということは、さっきの楓はその『三井先輩』……を駅まで送っていたってことになる。はて、と私は頭を捻った。
勿論、運動部の上下関係は文化部よりも厳しいことは知っている。でも、この弟に関しては例外だったはずだ。中学でもバスケ部だったけど、先輩を敬ってる姿なんてただの一度も見たことがない。いや、一応年上として敬語とかは使ってるんだろうけど、こんな朴念仁みたいな可愛げの無い後輩とじゃれあって、あわよくば帰りに自転車で送って行けよ!なんて言えるモノなんだろうか。
いや、そもそも言われたとしても楓はやらない気がする。たぶん、おそらく。そんな楓がいそいそと家とは反対方向の駅まで送り、『三井先輩』の乗る電車が来るまで談笑している……?
「その『三井先輩』ってどんな人なの?」
楓は切れ長の瞳をぱちぱち、と二、三度またたかせたあと、茜色の空を見上げた。
「……絶対、諦めねー人。バスケが上手い。どのポジションも難なくこなす。スタミナはねーけど、どんなにヘトヘトでも、ここぞって時にスリー決めたりする。試合の時、パス出してえ所にセンパイはいるし、オレがパス欲しいときにパスくれる。放課後にワンオンやって、たまにコンビニで肉まんおごってくれる」
「ふーん……へーえ……」
アレクサやsiriよりも饒舌に喋る弟は珍しくて、にやにやと笑みを浮かべてしまう。含みを持たせたような私の返しに、ママチャリのハンドルを持ったまま楓が眉根を寄せた。
「……一体、ナニ?姉ちゃん、きもちわりー」
「は?美しいお姉様に向かって『気持ち悪い』とは何事?」
オッケー、グーグル。弟への仕返しの方法を教えて。曲げた膝で楓の腿裏のあたりを軽く蹴ってやると、ママチャリもろとも小さくよろめいた。ざまあみろ。姉にたてつくとこうなるのだ。ふん、と鼻息荒くドヤ顔をしてやると、心底嫌そうに楓がため息をついた。
「楓、いいこと教えてあげる」
勿体ぶったように、私はそこで一呼吸をおいた。人差し指を立てて、弟の視界に入るようにひらひらと左右に振る。
「誰かに『どんな人?』って聞かれたとき、好きな人だと好きなところ言っちゃうんだって。嫌いな人だと嫌いなところ。それでね、どちらでもない知り合い程度の感情だったら、関係性とかプロフィールとか説明しちゃうんだって」
「…………」
「それをふまえるとさあ。楓がさっき教えてくれたことは、全部、楓がその『三井先輩』に対して、好きだな~って思ってる所……てコトなんだけど?」
「……………………」
弟の十八番らしい黙秘権を行使しているが、姉の前ではそんなものは通用しないのだ。ぐいっと詰め寄ると、おもしろいくらいに目線を反らされる。
こちとら、アンタがフニャフニャ泣いておしめを替えてもらってる時からアンタを見てきているのだ。姉を誤魔化そうとするなんて、五万年早い。
「今度、家に連れてきてよ。せっかくだから晩ご飯とか食べていってもらえば?」
「……ナルホド」
名案だ、とばかりに楓が小さく頷く。満更でもなさそうなその様子に、少しだけちょっかいをかけてやりたくなる気持ちが芽生えてしまうのは許してほしい。
「ウンウン、それに、『三井先輩』と私も話したいしさあ〜」
まくしたてるようにそう言うと、楓の眉根がきゅっと寄った。
「センパイが来るとき、姉ちゃんも居るの?」
「あたりまえでしょ!」
右上の方向を向いて、何かしら上手く私を撒けないか言い訳を考えているらしい姿に内心笑ってしまう。どんな返しをされても、口では絶対に負けない自信は往々にしてある。
「……あ、そういえば」
「なに?」
「……センパイ、最近食欲ないから晩ご飯とか食べねーって言ってた気も……する」
「はあ〜?部活真っ盛りな男子高校生がそんなことあるわけないでしょ!」
さっき、コンビニでお腹すいて二人分の肉まんを買ってくれるって言ったのはアンタだよ?あまりにもチグハグな言い訳に間髪入れず返すと、楓の目がおろおろと泳いだ。
「……あるわけない、ことは……ねーと思う……タブン……」
十五歳の脳内をフル回転させ必死にとぼけている姿を見て、私は声を上げて笑った。
end