じりじりと肌を焦がしていく太陽の日差しは、日本のそれよりも数倍強い。首にかけていたタオルを広げて頭にかぶせる。熱中症予防のために水分はしっかり摂っているが、まさかこれほどとは。さすが赤道に近い国だな、と隣の男に笑いかけると、その男――流川楓は不思議そうに首をかしげた。
「赤道に近いと太陽が近い……ってこと?」
同じ熱気に晒されているはずなのに、どことなく涼しげに見える横顔を羨ましく思いながら三井は答えた。
「いや赤道の近くだと太陽の角度が何か……アレじゃなかったっけか?」
理科の授業を思い出そうとしたものの、赤点スレスレを生きてきた自覚のある元高校生の授業の思い出など結局、うろ覚えのものしかなく。よく分かんねえけど暑いなあ、なんて二人で笑った。
日本ではまだ桜が蕾を膨らませる程度の早春の時期にもかかわらず、この国はほぼ一年を通して半袖で過ごせてしまう。
そんなこの国を卒業旅行の地に選んだのは自分だった。飲み干したビールの缶をこつんと転がして、遠く離れたアメリカの地と日本をつなぐスマートフォンの画面越しに何気なく「世界の果て……みてぇな場所に行ってその風景を目に焼き付けたいんだよな」と呟いた言葉に、流川は意外にも真剣に頷いた。
「センパイの行きたいところに、オレも行ってみたい」
流川はまだ卒業するわけでもないし、いくら日本よりはアメリカの方がその国に近いと言ってもそこそこ値段はかかる。そう渋る自分に、流川はスマホのスクリーンショットをLINEで送ってきた。それには、日本からアメリカを経由して、その国への航路乗り換えが表示されている。
思いつきで呟いただけなので、行き方まで全く調べていなかった自分と違って、流川はこういう時だけ謎に行動力がある。
「結局、どっちにしろ羽田から乗ってアメリカのどこかで乗り換えるんだから、そこからオレが合流すればいいだけ」
「いいだけ、っつっても……」
「センパイが見たい景色を、オレも一緒に見たい」
……そんな風に恋人に言われてしまって、断れる男がどこにいるだろうか。結局、二人ともバイトや資金繰りに明け暮れて、今回の旅行資金をなんとかやりくりしたのだった。
夕暮れに羽田から飛び立って翌日の昼にLAに到着した。
そこで流川と合流し、まずはアトランタまで。そこでまた乗り換えて、真夜中のマイアミ国際空港へ降り立った。マイアミでは驚愕のトランジット十時間。……十時間って、どこで何をすれば……。
ここまでの疲れもあり流石に心が折れそうになったものの、なんとか翌昼に最後の便に乗って、ビルビル国際空港へとたどり着いたのだった。
そこからは車移動になる。太陽が昇りきる前にホテルを出て、ガイドの運転する車に乗り込み早数時間。
砂だらけのランドクルーザーは、日本では考えられないような荒くれ道を、ひたすら南へと進んでいく。岩の上を走るたび、車体は笑えるくらいに大きく跳ねた。運転席のバックミラー越しに、ガイドが楽しくハンドルを切っている顔が見える。「俺の運転はなかなかイカしてるだろ?」と言いたげなガイドの親父の気質は、清々しいほどに暑いこの国とよく似合っていた。
「where are you from?」
同じガイドの車に乗り込んでいる旅行者の、人なつっこそうなカラフルな色彩の瞳に見つめられる。「From japan」。自分がドギマギしている間に流川がそう答えてくれると、口笛を吹いて歓声が上がった。ニンジャ、サムライ!オハーヨーゴザイマス!……自分が知っている限りの日本語を次々口にしては盛り上がっている彼等に、膝に置いていた一眼レフカメラを指差し、写真を撮っても良いかとジェスチャーで聞くと快くOKされた。
流川の説明によると、その三人組は幼い頃からの友人で、スペインからはるばるやってきたらしい。
太陽の国、スペイン。彼等の屈託の無い笑みは、どことなく桜木と、その仲間達を思い起こさせる。
「良い写真、撮れたんすか」
「ああ、とびっきりの笑顔だ」
流川が、液晶に映った彼等の写真を見て、口元を緩ませる。
「センパイがこんな良いカメラ持ってるなんて、初めて知った」
「親父に、卒業旅行で行くって言ったら貸してやるって持たされた」
「この旅でもう何枚撮ったんすか」
「数えてねえけど……これで二枚目のSDカードだから、五百枚はゆうに越えてんのかも」
流川は少し驚いたような顔をしたあと、車窓から流れるように通り過ぎていく何も無い草原の景色を眺めた。
「楽しみっす」
「……ん?」
「センパイの言う、『世界の果て』みたいな景色」
「ああ、そうだな」
「あんたなら、そこでもこんな風に良い写真を撮る」
「…………」
「そうでしょ」
流川の言葉はすべて、取り繕いの無い本音ばかりだ。だから、それがお世辞でも何でも無いことは、何年もこうして付き合ってきた自分が一番よく知っている。それだけにどうにも気恥ずかしさが勝って、三井は小さく首をすくめて照れ笑いをうかべた。
「……ありがとな、流川」
本当に、本当にありがとう。こんな場所まで付き合ってくれて。最後まで、オレと一緒に居てくれて。
唐突な感謝の言葉に、流川が不思議そうな顔をする。その頭をくしゃりと撫でて、三井は一眼レフカメラを鞄の中にしまうと、少し仮眠をするためにゆっくりと目を瞑った。
「――……!」
数時間の車旅を経てようやくたどり着いたそこは、呼吸を忘れるほどの壮大な景色だった。
見渡す限り、三六〇度。地平線を隔てる障害物は何一つ無い。
いつも自分が暮らしている日本では狭く見えた空と、ここにある空は本当に同じモノなんだろうか。 何の人工物にも染まっていないその空は、悠々と三井を包み込んでいる。
地平線までずっと続くのは、自分の足首まで浸かる浅い湖、その透き通った水が、青い空を鏡のように反射していた。
決して過ごしやすい気候ではない。息を吸うたびに噎せ返るほどの熱い空気は、気管から自分を炙っていくように感じるし、頬をかすめていく砂塵の風も爽やかなものではない。けれども、そんな事なんて些細なものだと思ってしまえるほどに――……。
「……すげえ…………」
よもや暴力的ともいえるほどの、圧倒される自然美が、そこには広がっていた。
三井が動くたびに水面が揺れる。空を映したその湖を歩くたびに、まるで空を歩いているような気分になる。円弧を描いて揺れていく湖の空に焦点を当てて一枚。そして顔を上げて、自分より数メートルほど先に居る流川に、こっそりとカメラを向けた。
レンズのファインダー越しに、流川の横顔が映る。大きく見開かれた彼の瞳には、どんな風にこの光景が映っているんだろう。
ズボンの裾を捲り上げ、裸足のままゆっくりと地平線に向けて歩いて行く後ろ姿。その背中を追って、三井はまるで一枚の絵を描いているような気持ちでシャッターを切った。
この一瞬を、永遠の思い出にするために。
一生忘れないための一枚を、最高の一枚を残すために。
幸せだったあの日々を、何歳になっても思い出せるように。
これは三井にとって、モラトリアムと卒業するための、最後の旅行だ。
流川は不器用だけれど、優しい男だ。だからこそ、自分のエゴだけでずっと側に居させるわけにはいかない。
流川にはまっとうな幸せを、世間一般から祝福されるような道を選んで欲しい。流川も数年後には大学を卒業する。きっとこの男は、誰もが知るスーパープレイヤーになるだろう。そんな男の側に、自分がいることで彼の翳〈かげ〉りにはなりたくない。バスケットボール界の頂点を目指す男を、生涯支えてくれるような優しい女性を見つけて欲しい。
流川の幸せのためなら、自分が身を引いたって全く構わない。でもその前に、願わくばたった一つだけでも――……永遠に記憶に残る思い出が欲しかった。
世界一美しい景色に佇む流川をファインダー越しに見つめるこの一瞬。枠内に存在している彼だけは、自分だけのものだ。この一瞬を切り『撮』って、一生大切にする。
これがあれば、自分は一人でも生きていける。
「……綺麗だ」
誰にも聞こえないように、小さな声で呟いた。この時間すべてを写真に納めておきたい――。そんな非現実的な願いさえ抱きたくなってしまうほどに、三井は夢中で被写体を追いかけていた。その所為か、ファインダーの枠内に存在していた流川が少しずつ近づいてきていることに、まったく気づかなかった。
「センパイ」
「……っ!」
びくっと肩を震わせて、レンズから目を離す。すると流川は自分のすぐそばまでやってきていた。そして、頭の上に、何か布地のようなものをかぶせられる。
「何……?」
タオルかと思いきや、それは艶やかな柄を染め上げたストールのようだった。流川はいつの間にこんなものを買っていたんだろう。それは精巧な作りで、細い糸で丁寧に編み込まれていた。この国に似合う、赤味を基調とした極彩色が風にゆらめく。
「お前、どこでこんなの買ったんだ?休憩で寄った市場の所か?」
「そう」
「日差しがきついからかけてくれたのか?大丈夫だって、熱中症でぶっ倒れたりしないから。自分にかけとけよ」
「そうじゃなくて、今……オレがセンパイにかけたいと思ったから」
「オレに?」
「純白のレースのヴェールより、あんたにはこっちのほうが似合うと思ったから」
「…………えっ……?」
信じられない言葉が聞こえてきた気がして、一瞬耳を疑う。呆気にとられたまま、極彩色のストールをかぶった状態で流川を見つめた。
「オレはセンパイと一生一緒にいたいと思う。センパイの行きたいところに一緒について行きたいし、センパイが見たいものを一緒に見たい。この気持ちがどういうモノなのか、ずっと考えてた。ココに着く前から、ずっと。その答えが今やっと見つかった」
「る、かわ……」
「オレと結婚してください」
「…………っ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。結婚……誰と……、オ、レ……?流川の言葉の意味を正確に理解しきるまで、数秒を要した。その意味を理解して、カメラを持っていた手が動揺で震えた。
駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。……絶対に、駄目なんだ。
あいつには普通の人生を送って欲しい。誰からも祝福される家庭を築いて欲しい。世間的に何の後ろ指もさされない人生を生きて欲しい。……だから、これが最後だと。これを最後にしようと思っていたのに、どうして。……お前は、今。
「……何、言ってんだよ」
喉から絞り出したような声が漏れた。
「……駄目だ、そんな」
「駄目な理由は何?」
「男……同士で結婚なんて、できない。それにオレはお前にまっとうな幸せを……ちゃんと女の人と結婚するんだ。それで幸せな人生を……」
「……それ、本気で言ってるんすか」
「………………」
「……ふざけんなよ」
意志の強い薄灰色の瞳が、自分を射るように見据えてくる。その目に囚われたように立ち竦んでいると、強い力で手首をぐっと掴まれた。
「アンタの言う、『まっとうな幸せ』って何」
「……それ、は……」
「オレは、世間一般が勝手に押しつけてくるような、そんなくだらねえ幸せなんて全然要らねー」
乱暴な仕草で流川のズボンの後ろポケットから取り出された銀色に光るそれは、自分が一生縁のないものだと思っていた。
「オレは、アンタとずっと生きていく覚悟を伝えるために、一緒にこの場所に来た」
「る、かわ…………」
「オレの幸せを何でセンパイが勝手に決めるの。もうオレも子供じゃねえ。自分の幸せくらい、自分で選べる。だから、オレの幸せは『ココ』にあるって、ちゃんと分かってる」
心なしか、少しだけ震えている流川の手で、自分の薬指にその銀色の輪をはめられる。
本当に自分なんかでいいんだろうか。
流川の人生の重荷にだけはなりたくない。不安は拭いきれないほど沢山ある。それでも今、この瞬間――流川の本気が、声で、目で、肌で、全身から伝わってくる。
嗚呼、覚悟を決めるのが怖かったのは、自分の方だったのかもしれない。自分の感情をはっきりと自覚して後戻りができない状況で、流川がいつか自分から離れていくかもしれないという恐怖に耐えきれなかった。だから『お前のことを考えて――』なんて言いながら、自分の怯えを、都合良く流川の幸せに置き換えた。こんなにも流川は強いのに、自分はなんてずるかったんだろう。
様々な感情が入り乱れて、薬指で輝いているはずの指輪は、みるみるうちに涙の膜でぼんやりと滲んでしまった。
「っ……ぅ……」
次々と溢れ落ちてくる涙でグシャグシャになった顔を見られたくないのに、風ではためくストールは三井の顔をまったく隠してくれない。
「センパイ、顔……もっとよく見せて」
「……や、だ……」
「ヤダって何なんすか」
子供みてぇ。流川が小さく笑ったのが、涙でぼやけた視界の中でも空気で分かった。
年下の、バスケしか知らない純朴な青年は、いつのまにかこんなにも強く、しっかりした大人の男になっていた。自分は、許されるのだろうか。流川の側に居ることを望んでも、いいのだろうか。
「もう一回言う」
「…………」
「センパイ。オレと、結婚してください」
「…………っ、は……い」
言葉と同時に力強く抱きしめられた身体は、いつもより少しだけ熱を持っている。流川の首元に顔を埋め、小さく鼻をすすった。
「センパイ……すき」
「おれも、すき……っ、すき……だ……」
耳元で囁かれて、こみ上げる感情にまた涙がこみ上げてくる。
「センパイ、さっきから泣いてばっかり」
「だっ、て……!」
好きを伝えるたびに、その言葉だけでは表しきれない感情が涙となって、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。必死に、かたくなに律していた心が、あたたかいもので満たされていく。
流川は此処にいる。流川の体温を感じる。
流川楓という人間が自分と同じ時間を生き、自分を愛してくれている。それはまるで、奇跡のように思えた。
「一生、側に居るから……一生、側に居て」
その声色は、約束というよりも、誓いのそれに似ていた。
これから日本に帰っても、また物理的に離れてしまっても。これから、二人に何があっても、このあたたかい体温と共に生きていく。もう二度と、一人で悩んだりしない。一人で勝手に、幸せを決めつけたりなんかしない。
自分の弱いところも、苦しいときも、つらいときも、嬉しいことも、楽しいことも。全部全部、分かち合っていきたい。
花嫁の純白のヴェールも、綺麗なドレスも、世間からの祝福も、承認も要らない。
流川がくれた、この揃いの指輪があればいい。
それだけで、いい。
「…………あいしてる」
共に生きることを、世界の果ての楽園で誓ったから。
END