続・28.5cmのシンデレラ


 桃栗三年、柿八年。
 ローマも一日にして成らず――だったように、三井の教師としての貫禄も一朝一夕で形作られたわけではない。

 若いなりに教師として生徒に尊敬されること。顧問として湘北高校女子バスケ部を勝利へと導くこと。いつか憧れの安西先生のようになるために 、努力を欠かさず仕事に邁進してきたこの三年間。
 桃と栗でいえば、ようやく実がなる年月。そんな三年間の研鑽が、一日にしてディズニープリンセスへと変わったあの日。きっと自分は一生忘れることが出来ない。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった川端康成も、こんな気持ちだったんだろうか。もっぱら、こちとらインスタで拡散されたらディズニープリンセスになったわけだが。明治文豪と令和のオレ。現実逃避のように比較してしまう。現・国語教師の悲しい性〈さが〉だ。

 桃栗三年、柿八年。人の噂も七十五日。
 どこからどう見ても屈強な成人男性が『シンデレラ』と廊下で呼び止められること、数えきれず。本当に七十五日で収束するのか!?と諺を作った自分達の先祖に嘆きたくなるほど、三井は湘北高校内で(主に女子生徒から)謎の加熱する流川王子フィーバーの最前線に立たされているのだった。


続・28.5cmのシンデレラ





「シンデレラ〜王子はいつ部活遊びに来てくれんの?」
「…………」
「あ、生徒のこと無視してる〜よくないよそれぇ」
「オレは『三井先生』であってシンデレラじゃねーからな、返事もしねえ」
「うわ駄々っ子!みんな聞いてぇ〜!ミッチーが反抗期になっちゃった」

 ふん、と鼻息荒く両腕を組んだまま、三井は体育館の天井にある水銀灯をにらみつけた。リノリウムの床にボールがぶつかる音に紛れて、部員達がクスクスと笑っているのが横目で見える。
 完全にからかわれている。バッシュ騒動があってはや十日。人の噂が七十五日だとしたら、この状況をあと二ヶ月ほど耐えなければいけないのか。
 はあ、と小さくため息をつきながら、三井は天井から足元へと視線を移した。自分が履いている、使い込まれたアシックスのバッシュが見える。

 あの騒動があってからというもの、流川からせっかくもらったバッシュは、家のクローゼットの奥底にしまい込んでしまった。三井とて履きたくないわけじゃない。それでも、こうやって好奇の目に晒されてまで履く勇気は無い。

 せっかく貰ったのに……という気持ちと、アイツがあんなことを雑誌で答えてなけりゃ……という気持ちがないまぜになって、胸の中でぐるぐると渦を巻いているのを想像する。
 渦と言えば……朝に洗濯機を回したのに干してくるのを忘れてしまった。嗚呼、最悪だ。生乾き臭と洗い直し……この世の終わりだ。
 生徒たちの知るよしも無く、三井の機嫌はどんどん急降下していく。いつもならば可愛い教え子だと思える彼女たちの笑い声も、いつもよりも耳にキンと響いてくるような気さえする。
 それにしても。教師をからかう余裕があるというのは、放課後の練習としてメニューが軽すぎるのでは無いだろうか?

 三井は体育館全体に鳴り響くようにパンパン、と大きく手を叩いた。

「お前らぁ〜!顧問をからかうほど元気が有り余ってんなら、追加の外周ラン行っとくかぁ!?」
「滅相もございません!!三井先生!!」
「三井先生!これ以上走ったら死んじゃうよお!」

 うるうる、と上目遣いで可愛い子ぶられても、今の三井には全く効果は無い。目には目を、歯には歯を。顧問イジリには鬼メニューで手合わせ願うのが三井の信条だ。

「三井先生に二言はねえぞ〜!ほら、追加いってこい!」

 鬼!大魔王ミッチー!なんて声が上がりつつも、肩を落としながら二列に並んで体育館の出口に向かう部員たちの背中を見つめる。彼女たちが帰ってくるまで、少なくとも十分はかかるだろう。

 三井は転がっているバスケットボールを軽くバウンドさせて、白く編まれたネットと紺色で囲まれた四角を見つめる。左右に片手ずつボールの感触を確かめ、くるくるっとスピンをかけたボールを両手で掴む。自分のフリースロー前のルーティンをこなして、すうっと息を吸い込んだ、その瞬間。


「ぎやぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!」
「いやあぁぁあああ!!!!」
「きゃぁぁああああああああ!!!!」


 つんざくような彼女たちの悲鳴が、三井の背後から襲いかかるように聞こえてきた。脊髄反射のように、叫び声の方へ振り向く。

 何が起こったんだ。学校内に不審者か。生徒達が危害を加えられていないか。一瞬にして最悪の想像が浮かぶ。とにかく自分が身体を呈してでも守らないといけない。
 出入り口あたりで腰を抜かしている部員達のそばに、三井は駆け出した。心臓がバクバクと高鳴る。相手は凶器を持っているかもしれない。こちらは丸腰だ、どうすればいい。考えろ三井寿!とりあえずは、生徒達をソイツから離すことが第一だ!三井は全速力で走りながら声を張り上げた。

「お前ら!早く不審者から離れろ!オレがなんとかする!!」

 急に出した大声は、不格好にも少し裏返ってしまった。でも、そんなことを考えている余裕はない。どんなにからかわれても、ミッチーだのプリンセスだのと呼ばれても、三井にとって彼女達は目に入れても痛くないほど可愛い生徒だ。
 不審者に傷つけられ、怪我の一つたりとて許すことは出来ない。

「ミッチー!!」
「お前ら早く逃げろ!!危ない!!」
「ミッチー、違うの!違うの、不審者じゃない!」
「え!?」

 訳が分からない。不審者じゃないのに、なんでお前達、そんな叫び声あげたんだ。全速力で駆けだしたスピードを少しずつ緩めて近づくと、生徒達が丸く囲んだ中から、頭一つ分ぴょこん、と抜け出している黒髪が見えた。
 長毛種の黒猫のようなふわっとした髪が揺れて、俯いていたらしい顔が上がり、ゆっくりとこちらを見据えてくる。

「……センパイ」
「る、かわ……?」


 女子生徒の「やっぱりそうじゃん!」「生ルカワやばすぎる!!」という黄色い悲鳴の中、流川の目線が自分の右手に移動する。
 そういえば、とっさのことでボールを小脇に抱えたまま全速力で走ってきてしまった。『湘北高等学校』とゴシック体で印字されたボールを見て、流川の唇が少しだけ緩められる。あ、こいつまた笑ってる。お前、不審者扱いされて何が可笑しいんだ。そう聞こうとした矢先、流川に先を越される。

「センパイ、さっきフリースローやろうとしてた?」
「あ、ああ……」
「ルーティン、高校の頃から変わってねーんすね」
「……お、う…………」

 流川の両手がパスを乞う所作をして、反射的にチェストパスでボールを渡してしまう。
 危なげなく両手で掴んだボールを小気味よいドリブルに変え、流川が自分の真横を風とともに通り過ぎていった。三井が振り返った先、そこにはさっき自分がフリースローをいれようとしたゴールがある。先ほどまで五月蠅かった生徒達がシン……と息をのんで見つめる中、床を蹴って美しく高く跳躍した身体が右手でボールを掴み、ゴールネットの中に激しく叩き込んだ。

 まるでテレビの向こう――。何万人もの大観衆が歓声をあげるアリーナのようなスーパープレー。それが、県立高校の小さな体育館の目の前で行われていることが、にわかに信じがたい。
 頑丈に作られているはずの固定式のバスケットゴールが激しくしなるようにぐわん、ぐわんと大きく揺れる。リングを掴んでいた右手を離し、両足を着地してこちらを振り向いた流川の黒髪が、いつもと変わらずふわり、とやわらかそうに動いた。

「おっ、お前……」

 またダンクの高さと破壊力、上がってねえか。そんな言葉を口に出すよりも先に、生徒達の割れんばかりの歓声が体育館じゅうに響き渡った。

「キャー!」
「すっっごーーーい!!」
「やばすぎる!!動画撮れば良かった!」

 飛び跳ねたり感動で半泣きになっている部員の間をくぐり抜け、流川の元へと近づく。ダンクの高さも破壊力のことも聞きたいけど、でもそれよりも前にまず聞かなきゃいけないことがある。

「お前、なんで……いきなり……」
「前に飲んだとき、湘北に顔出してこいって言ったくせに。あれからセンパイ、全然連絡くれねーから」
「お、おう……」

 お前のバッシュのせいで、成人男性がシンデレラに祭り上げられてしまってそれどころじゃなくなったんだ。……とは言えず、三井はぎこちなく頷くことだけにとどめた。

「だから呼ばれてねーけど来た。……ダメだった?」

 今や自分よりもひとまわり背が伸びた身長で、こてんと首をかしげる。見た目は完全に猫なのに、こういう時だけはクゥン、と尻尾を小さく振っている大型犬にしか見えないのは昔からで。この顔にじっと見つめられると、どうにもこうにもダメだ、なんて言えなくなってしまう。

 首を傾げた流川が三井の顔を見つめ、足元をちらりと見て、小さく瞠目する。流川が黒く長い睫毛をふっと伏せた。前髪を指先でいじりながら、消え入るような声で何かを呟いている。

「……あのバッシュ、履いてねーんすか……」
「え?何……?わりぃ、聞こえなかった」

 もう一度言ってくれないか。そう言おうとした矢先、部員達がワッと流川の周りに駆け寄っていく。

「ノーアポでも全然オッケーでーす!」
「ダメじゃないでーす!」
「流川選手にドリブル教えて欲しい!」
「「よろしくおねがいします!」」

 女子高生の勢いにおされ、流川が少し面食らっている。そうだよな、現役女子高生のパワーはすさまじいんだ。オレは毎日のことで慣れてるけど、お前は抗体無いもんな。流川のうろたえる姿を見るのは初めてで、思わず小さく吹き出してしまった。

「お前ら、五分休憩。そのあと流川に色々教えて貰えよ〜」
「「「はあい!」」」

 流川がぎょっとした顔でこちらに何か訴えかけている。それを鼻歌を歌って、気づいていないフリをする。

「後輩の扱い方がオーボーすぎるとこも変わってねー……」

 小さくため息をつきながらパーカーを脱いでいる流川の元に、スマホを持った一人の部員が近寄っていく。

「流川選手、あのぉ〜、写真、部活のインスタに上げても良いですか?」
「……センセイが良いっていうならいーけど」

 流川がくいっと顎をしゃくりながらコチラを見てくる。

「ミッチー、いいよね!?」
「おー、別に良いぜ」
「やった!じゃ、ミッチー、流川選手の隣に立ってもらっていい?」
「は?オレも写るのかよ」
「当たり前じゃん!」

 満面の笑みで、背中をぐいぐいと押される。

「王子とシンデレラのツーショ撮って、またバズらせるんだから!!」
「……王子?シンデレラ……?」

 要領を得ていない流川が首を傾げる横で、三井はぐぬぬ……と頭を抱えた。
 人の噂は七十五日どころか、より一層シンデレラフィーバーが加熱する未来が簡単に予想できてしまった。

「はい、チーズ!」

 失意にうなだれる顧問と、訳の分かっていないスーパースターをぎゅっと隣に配置させ、生徒のスマホだけがピロリン、とゴキゲンな音を立てたのだった。 


□□□




 校門のスピーカーから、下校をうながす放送が職員室からもよく聞こえてくる。デスクで部誌を確認している三井の横で、小さな椅子に大きな図体を丸めてちょこんと座っている後輩が、窓の外を眺めた。

「……この曲、懐かしーっす」
「オレ達の頃から変わってねぇんだよ。よく、この曲無視して『まだできる』とか言って粘ったよなあ」
「生徒指導のセンセーにバレて叱られた」
「あったあった!『お前らいつまでやっとるんだ!』て大声で怒鳴られて、お前ビクッとしてたよな」
「ビビってたのはセンパイのほう」
「いーや、お前の方がビクッとしてたね」

 他愛の無い思い出話に花を咲かせながら、コメントを書き終えた部誌を閉じる。ぐぐっと伸びをして、首を左右に振ると小気味よい音がなった。
 最近、肩こりがひどい。十代の頃なんて肩こりの辛さなんて微塵も知らなかったのに、今や首を回して「あ゛〜」なんて声が出てしまう。自分がオジサンになってきているようでかなりつらい。まあ、それは今はいいとして。通勤用の鞄をロッカーから取り出して、くるくるとキャスターを動かしながら椅子とたわむれている流川に近づく。

「んで、どーする?これから飲みに行くか?」
「車で来たんで飲めねーす」
「え!?お前、車持ってんの?」
「去年、アメリカ帰る前に買って、おととい納車された」
「へ、へー……」

 うらやましい。あまりにも羨ましすぎる。こちとら賃貸マンションに置ける駐車場も甲斐性も無く、ひたすら通勤ラッシュの電車に毎日揺られているというのに。
 県立高校の教師とNBAのスーパースター。貰っている額が違うのは分かっていたけど、わざわざ日本で買う必要があったのだろうか。一年のほぼアメリカで過ごしているような男が、日本で車を買う理由が良くわからない。まあ、軽自動車くらいならコイツにとっちゃ大した出費でもないか?内心そんなことを考えながら、三井はにやり、と笑った。

「じゃあ送ってってくれよ。家まで」
「いーけど」
「やりぃ、持つべきモノは後輩だな〜」
「……このやりとりも懐かしい」
「確かに。自転車の荷台から、車の助手席にレベルアップしたな」

 流川の唇が小さく緩められる。あ、また笑ってる。年を重ねるごとに、この男の感情表現が少しずつ表に出てきているような気がする。前にそれを宮城に言ったら「……そうすか?三井サンが流川とよくいるから分かってくるようになったんじゃないすか」と訝しがられたけど、三井だって流川とずっと一緒に居るわけじゃ無い。
 彼の本拠地はアメリカだし、渡米してからはオフシーズンに会うだけの関係だ。そう宮城に言い返したら、やれやれ……みたいな顔をしてため息をつかれた。アレはどういうため息だったのか、未だに分からない。

 そんなことを思い返しているうちに、流川が車を停めているらしい場所へと着いたらしい。遠隔キーで扉が開くらしく、ピピッと電子音が鳴る。前にいる流川の背中でよく見えない車体をじっくり見ようとして、そこに現れたピカピカで大きな車体に、三井は数秒、息をすることを忘れた。

 な、なんだこれ。でかい。
 あと真っ白でピカピカで、あと……車のエンブレム?っていうのか?オレの見間違いじゃ無ければ……とんでもない外車のブランドロゴが彫られてあるような気がする。

「お前、えげつねえ車……買ってんじゃねーか……」
「……?」
「いや、コレBMWだろ!お前、車とか興味あったっけ!?」
「……ナンカ……NBAと似てるなと思って、この車のメーカーだけ覚えてた」
「そんな選び方ァ!?」

 思わず大声を出してしまった。この車――BMW本人(?)もすげぇ驚いてると思う。自分、そんな理由で選ばれたんだ……って。たぶんだけど、そんな理由でBMWの車をポンと買った人間、この目の前に居る流川楓以外いない。

「ディーラー?に行ったら営業の人がコレとコレがよくて内装はコレがオススメ……って言われたそのままのやつ買った」

 脳内で、流暢な営業マンがオススメしてくるオプションにすべて無言でコクリと頷く流川の姿が、再現VTRのごとく再生された。あまりにも想像に容易い、容易すぎる。最後に「じゃ、ソレで……」と一言だけ言葉を発して、札束をバサ、と起き、キャッシュ一括買いをする様子まで思い浮かべて、三井は立ちくらみをおぼえた。

「お前って、たまに予想のはるか上を越えてくることあるよな……」
「……?よくわかんねー」

 首を傾げる流川を横目に、助手席のドアをゆっくりと開けた。こんな高級車に万が一傷を付けようものなら、大変なことになる。おそるおそるシートに座ると、あり得ないほどのフィット感が背中から腰回りを包み込んだ。さすがディーラーの営業に言われるがままに内装もオーダーしただけのことはある。最高品質のクオリティに、思わず「うわあ……」と声が漏れ出てしまう。こんなの乗ったら、もう軽自動車の硬いシートなんて乗れなくなっちまう。
 運転席に座った流川が、ステアリングを握りながらこちらを向いて、満足そうに小さく頷いた。

「……また一個、センパイが言ってたコト叶えられて良かった」
「オレが、言ってたこと……?」
「センパイ、高校の頃に『いつかチャリじゃなくて、お前の運転する車に乗ることがあるのかもな。楽しみだな』……って言ってたから」
「オレ、そんなこと言ったっけ……」

 いや、言ったのかもしれない。でも、コイツと部活帰りに他愛も無い話をしたことなんて数え切れないほどあって、その数え切れない話題のどこかで、そんなことを自分は言ったんだろう。
セピア色になりつつある高校時代を一生懸命思い返せども、流川には申し訳ないが全く思い出せない。

「世界で一足だけのバッシュが欲しい、って言ってたこともある」
「世界で、一足だけの…………」

 流川の言葉を復唱するように唱えて、三井はハッとした。すべてのピースがかちり、と埋まっていく。この男は……自分の何気ない言葉を覚えていて、あのバッシュを自分に贈ってくれたのだ。

 勿論、バッシュ云々のこの言葉も、三井がしっかりと覚えているわけじゃない。それなのに、流川だけが。この後輩だけが、その自分の他愛ない言葉を、欠けることなく記憶に留めて置いてくれたんじゃないだろうか。

「あの頃、センパイが言ったこと。忘れねーように帰ったらノートに書いてた。こんなことがしたい、あんなものがほしい……って、十五歳だったあの頃じゃ叶えられないコトも、大人になったら叶えられるかもしれねーって思って。早く、大人になりたかった。大人になって、もっとバスケ上手くなって、センパイが笑う顔、もっと見てーと思ったから」
「……なんで、オレの、よろこぶ顔、なん、か……見てえんだよ、お前……」
「センパイのことが、ずっと好きだったから」
「……っ」

 三井が何気なく零した言葉のかけらを、宝物のように今まで覚えていてくれた。そんな純粋で無垢な心情を、原石の宝石のように差し出されて、思わず三井は唇をかみしめた。
 急な展開で、何を返せば良いのかわからない。まさかの男から好意を打ち明けられて、自分はどうしたい?自分は流川のことをどう思っているんだろう。

 密閉され遮音された車内がシン、と静まりかえる。一秒が、永遠のように長く感じた。
 耐えきれなくなったように、流川がふう、と大きなため息をつく。背もたれにぐっと体重を押しつけて、目を伏せた。

「……気持ちわりーと思われたらイヤで、ずっと黙ってた。のに……ゴメンナサイ」
「や、違……くて……」
「こんな所で言うつもりじゃなかった。気持ちわりーとおもったら、このまま助手席のドアあけて、出てってもらっていーっす」
「な、なん……で……そんなこと言うんだよ……」

 さっきから、どうして流川は自分が嫌がる前提でモノを言っているんだろう。なんだか、だんだん腹が立ってきた。さっきまで自分の気持ちが分からないと思っていたはずなのに、今、自分は勝手に自分の気持ちを流川に決めつけられて腹が立っている、らしい。
 オレの感情を勝手に決めるな。オレの気持ちはオレのもので、今……こんなにもムシャクシャした気持ちになっているのは、逆算していくと――……きっと。

「わりーけど、フラれた相手の家まで車で送ってくのは、さすがにつれーので」
「…………か、かってに……」
「……?」
「オレが何も言ってねえのに勝手にフラれてんじゃねえ!!」

 一瞬の衝動だった。身体の奥底で、パンパンに膨れ上がった風船が一気に破れてゴムの破片を飛び散らせるみたいに爆発的な衝動。
 助手席の高級なシートに乗り上げて、運転席の流川のパーカーの襟首を掴む。瞠目している流川の表情を横目に、自らの顔をぐいっと近づけた。ガチン、という音と共に、前歯の神経がジィィィンと痺れるような衝撃に襲われる。唇をぶち当てるどころか、勢いが良すぎて前歯と前歯がタイマンを張ってしまったらしい。
 まさかすぎる。こんなの、童貞でもやらないようなミスだ。

「〜〜〜〜〜〜〜つ、ぅ…!」
「…………っ、ぅ………………」

 お互いに口元を覆って悶絶する。うっすらと涙も滲むほどの痛みをどうにか堪えて少し落ち着いてくると、途端に腹の底から可笑しさがこみ上げてきた。

「っ、く……あ、あははは!何してんだオレら!BMWの中で!!ヒーッ、やべえ!」
「……オレら、ってか……ぶち当ててきたのはセンパイ」
「高校生でももっとちゃんとしたキスできるっつーのに、アラサーのオレ達が、っ……こんな……はは、無理……腹痛ぇ……」

 キス、という言葉に、流川がぴくっと反応するのが横目に見えた。

「今のって、キスだったんすか」
「………………おう、悪いか」
「悪くねー、けど……キス、するってコトは……その……」

 この後輩にしては歯切れの悪いモノの言い方に、思わず吹き出してしまう。
 こんな高級車をキャッシュ一括で買ったり、世界で一足しかないバッシュを贈ったりするくせに、あまりにも可愛いではないか。そう……たぶん、自分はずっと流川のことを可愛いと思ってきたのだ。無意識のまま、この十年間。
 オフシーズンになったら絶対に連絡が来るのが待ち遠しくて、どんどん有名になっていくのが嬉しいようでいて少し寂しくて。自分だけが知っているこの男の一面を見るたびに、優越感があった。それもこれも全部、きっとこの男のことが好きだったから。

「いつもの鬼みてぇなオフェンスマシーンはどこにいったんだか」
「…………うぬぼれても、いーんすか」
「オレが良い、って言ってんだけど?」

 お前はいつだって、自分に出来ないことは無いって。世界の頂点を取るんだって。あの頃と同じように自信満々でいりゃいいんだよ。そんな流川楓のことを、自分は好きになったのだから。 

 助手席に座っている三井の右肩に、流川の左手がかかる。ぎし、と良質なシートが二人分の体重をかけられて、少しだけ軋む音がした。至近距離で見つめ合った先――黒曜石みたいな流川の瞳と目が合う。
 長い睫毛がふるり、と震えてゆっくりと細められる。猫みたいだな。そう思った矢先、おでこをコツンと合わせられる。そのまま鼻筋をいつくしむように撫でられて、こそばゆさと恥ずかしさに小さく笑ってしまう。頬の輪郭を指でなぞられて見つめ合ったあと、流川の唇が静かに下りてきた。

「…………ずっと、こうしたかった」

 切実な想いが溢れ落ちる。三井は、その後頭部の髪をやさしく指先で梳いた。されるがままに、流川の頭が、三井の肩にすりつけられる。自分と違う体温に触れられていることが、こんなに心地良いものだなんて知らなかった。

「さっき……聞いたんすけど」
「……ん?」
「センパイの生徒の皆に、なんでセンパイがシンデレラって呼ばれてるのか聞いた」
「あ〜〜……、それ……な」

 そういえば、流川はSNSをやっていない。騒動の張本人なのに知らなかったのか、と脱力すると同時に、コイツらしいな、とも思う。

「だから履いてなかったんすか、バッシュ」
「お前、気づいてたのかよ」
「……すぐ気づいた。気に入らなかったのかなと思って、悲しかった」
「悪いな、シンデレラだって揶揄られるのがイヤで、意地で履いてなかったんだ。でもよ、お前がこんな想いこめて用意してくれたんなら、明日から履こうと思う」
「……いいの?」
「おう。……結局、シンデレラになっちまったし?」

 名実ともにな。そう言って三井は肩を揺らして笑った。あの騒動の当日にからかいまじりの電話をかけてきた、宮城の言葉を思い出す。『流川王子のプリンセス』――まあ、悪くないんじゃないだろうか。

「シンデレラになったのに、悪いんすけど……」

 流川が肩に擦り付けていた顔をあげて、じぃっと見つめてくる。バスケ選手特有の、皮膚が硬くなった手のひらで首筋を撫でられて、こそばゆさに思わず腰が揺れる。

「……十二時越えても、家に帰せないかもしれねーけど、いい?」
「………………」


 かぼちゃの馬車でなくBMWの車内で、真っ赤な茹でタコになったプリンセスがこくん、と頷いた。













end