流川家のリビングのホットカーペットの上に、190㌢近い大男が丸く転がっている。
こうやって、食べた後にすぐ眠ってしまう姿は、小学生の頃と全然変わらない。それに薄手の毛布をかぶせながら、小さく笑みを浮かべてしまう。
生まれてからもう数十年。年を重ね、いつのまにか巣立って独り立ちした今でも、愛おしい息子であることに違いはない。自分ゆずりの黒髪が頬にかかっているのをうっとうしくないのかしら?と見つめていると、風呂から上がったらしい三井君が、バスタオルを片手にこちらに近づいてくる。
「すみません、先にお風呂いただきました」
「いえいえ、お湯加減はどうだった?」
丁度良かったです、と答える三井君の視線が、こんもりと膨れる毛布の山を見て瞠目する。そのあとすぐ小さく吹き出して、仕方ないなというように笑った。
「ごめんなさいね、三井君も一緒に遊びに来てくれてるっていうのに……実家だからって気を抜きすぎよね?」
「いえいえ、流かゎ……いや、楓君、いつもこんな感じです」
顔を見合わせて、お互いに目を細めた。三井君がソファに腰掛ける。
楓、という共通項の中で、勝手に私は三井君のことを『戦友』にも似た何かだと思っているところがあるのだ。さっき三人で見た楓のアルバムの中でも、半分くらいが寝ている写真だった。
規則正しく揺れる毛布を見つめていると、色々な思い出がよみがえってくる。
「赤ん坊って……なかなか寝ない、寝付きが悪くて夜泣きが困る、とかって一般的にはよく言われるじゃない?」
「確かにそうですね、子守歌っていうジャンルもありますし」
子守歌が歌のジャンルだなんて、なんだかJPOPの親戚みたいね?なんて言うと、三井君も歯並びの良い白い歯を見せて笑ってくれる。
前にいつだったか「三井君は歯が綺麗ね」と言ったとき、三井君が少しだけ逡巡したような顔をしてから「矯正のおかげかもしれません」と答えてくれたことを覚えている。でも実はそのあと、私は本当の理由を知ってしまったのだ。でも、本人が言いたくない事なんだろうと思って、そっとしている。
「一生懸命ね、楓がお腹の中に居る頃から歌を覚えたの。臨月の頃に散歩しながら歌ったりとか、おなかをさすりながら歌ったりとか。ようやく生まれてきてくれて、さあ練習の成果を……!て思ってたのに」
そこでいったん区切り、焦らすように小さく息を吸い込む。
「楓ね、歌う前から熟睡してるのよ……」
「っ、……くく……」
「想像できるでしょう?そりゃあね、全然寝てくれない赤ちゃんより、私はだいぶ楓のそういう所に助けられたとは思うんだけど……でも、せっかく覚えたじゃない?だから披露する機会が無いのが勿体なくて、もう寝てる楓のゆりかご揺らしながら、ずっと子守歌歌ってたの。観客はゼロの、ソロコンサートよ?」
勿論、勿体ないだけじゃない。楓が聞いていないことは分かっていても、それでもあなたのために覚えたのよ?と、与えてあげたくて。
それは一方的な親の押しつけかもしれなかったけれど、歌い続けた。お腹の中に居た頃からずっとずっと歌ってきた歌だから、無事に元気に生まれてきてくれてありがとう、の気持ちも込めて歌っていたような気がする。
「……それってどんなカンジの歌ですか?」
「え、どんな歌、って……もしかして、今、歌うってこと?」
「……できればお願いします!」
「あら!やだわ……音痴だったらどうしましょう?」
大丈夫ですよ、なんて気持ちばかりのお世辞を貰って、数十年ぶりにその歌を口ずさんだ。ワンフレーズと少しを聞いて、三井君が何かを確信したように頷いている。
「……やっぱり」
「え?」
「それ、楓君……覚えてますよ」
「……本当に?」
「はい。前に聴いたことがあって。いつ覚えたのかは分からないけど、メロディが頭の中にあるみたいです」
「……そっか…………」
寝ている赤子に歌を歌うなんて、一方的に『愛』を与える自己満足だと思っていた。そう思っていたものが、この子の中に生きていたのだと思うと、数十年の時を経てじんわりと胸をあたたかく満たしていく。
そして自分自身が楓に与えた『愛』が楓の中に生き、そして楓が与えた『愛』が、今目の前にいる『彼』に受け継がれている。
その慈しみの系譜を、とても愛おしいと思う。
「ねえ、三井君。おばさんのひとりごと……きいてくれる?」
「ひとりごと……ですか?」
「うん。ひとりごとだから、相槌とかうたなくていいからね」
初めて妊娠が分かった帰り道、つわりで体調が優れない時期、どんどん大きくなっていくお腹を抱えていた秋晴れの日。散歩していた道端に、いつだって美しいカエデの木があったの。春は美しい新緑、夏は瑞々しく青く繁って、秋には目を見張るような真っ赤に色づくそのカエデの木は、いつだって私を静かに元気づけてくれている気がした。
冬になったら葉が落ちる。でも、また春には新しい芽を出す――。四季折々で、どの季節だって美しくしなやかで、何度だって立ち上がれる……そういう強さと美しさを感じた。そのときにね、この子には『楓』って付けようと思ったのよ。
名前は親が最初に与える『愛』であり『呪い』でもあると思う。こうあってほしい……という、親が思う一方的な願望。でもそんな杞憂もそっちのけで、楓は私が思った以上に強く、しなやかに成長してくれたと思う。
まあ、……まさにカエデの木のごとく、ほとんど喋らない子に育つとは思わなかったけど?
「……確かに」
三井君が可笑しそうに笑う。小さく息を吸って、私はリビングに置いている家族写真を眺めた。
あの子は、一人でも生きていける強さがあるのは事実。
でもね、一人じゃなく、愛おしい誰かと共に生きるからこそ強くなれることも、知って欲しかった。その『誰か』が、楓が初めて家に連れてきて遊びに来てくれた『センパイ』だとは予想していなかったけれど。
でも、でもね。三井君。楓にそのことを伝えられたとき、私はなんだかすごくしっくりきたの。
楓が初めて心を許して、そしてこれからも三井君だけを想って、共に生きていく。そんな一途な息子を、誇らしいとすら思えた。……そして、そんな楓をまた、選んでくれた貴方にも感謝しかないの。
前に手紙で書いてくれたよね、『楓を産んでくれてありがとう。一緒に居ることを認めてくれてありがとう』って。でもね、それは私も同じ。
三井君、貴方が生まれてきてくれてありがとう。
楓と出会ってくれてありがとう。
楓を人生のパートナーに選んでくれてありがとう。
貴方を産んでくれたお母様に、ありがとう。
「ずっとずっと言いたかったこと。長い話、聴いてくれてありがとうね、三井君」
「…………っ」
この子は楓のような、思い込んだら一直線に突き進める子ではないはずだ。色々な事が考えられるからこそ、思い悩んだことも容易に想像できる。
楓には三井君しか居なかったとしても、彼には様々な人生の選択が出来たはずだ。
それでも、楓のそばに居ることを決めてくれたこと。
楓の手を取ってくれたこと。
葛藤の中で、息子と生きること。
それを選んでくれたまるい後頭部が、小さく震えている。それが幼気(いたいけ)でいとおしくて、肩をそっと撫でた。
彼等の行く末に、希望が満ちあふれることを祈りながら。それは、未来への福音。
瞳を潤ませた三井君が小さく鼻をすすると、カーペットの上の大きな毛布の山が動いた。
もぞもぞ、もぞり。寝癖の付いた黒髪が、のっそりと毛布の端から顔を見せる。まるで大きなくまが冬眠から覚めるように、眠たげな目を擦っている。
「……せん、ぱい…………」
「あら、楓。起きたの?」
「かあ、さん?…………何で……」
「お前、寝ぼけて実家に帰ってきてることすら忘れてんのかあ?」
こてんと首をかしげる楓に、三井君が呆れたように答えた。
「寝てたけど、ぼんやりしゃべってるの聞こえてた。母さんとセンパイ、何話してたの」
「……内緒!」
「ひみつよ?」
「…………なに、ふたりして」
むすっとふくれる顔は、さっき覗いたアルバムの写真と同じ顔をしていて、思わず三井君と顔を合わせてクスッと吹き出してしまった。
□□□
「あのね、三井君。さっき私……これで言いたかったこと全部って言ったじゃない?」
「……?はい」
「もう一つだけね、三井君にヒミツにしてることがあったの」
まだ眠そうな楓の頭が彼の肩に甘えるように寄りかかっている状況下で、三井君が緊張した面持ちでこちらをじっと見つめてくる。その視線に小さく頷いて、口を開いた。
「三井君の歯が綺麗ねって褒めたことあったじゃない?……あれ、差し歯だって知ってるの、実は」
「……え!?」
「ヤンチャして、折っちゃったことも知ってるの。楓に教えて貰っちゃった」
語尾に音符をつけるがごとく茶目っ気を含めてウインクまで付け足してみる。少々茶目っ気が時代遅れなのは許して欲しいところ。
三井君が、半分眠りかけの楓の肩をグワングワンと揺さぶる。
「お、おい流川!おまえなんで!」
「……?母さんが三井君は歯の矯正してるのねって言うから違うっていっといた。……もしかして、言っちゃダメだった?」
「――――!?」
素っ頓狂な声を上げた三井君がソファの背もたれに倒れ込む。耳まで赤くしてうめき声をあげる姿を見て、私は声を上げて笑った。
――かみさまが愛をあたえた――
end