桜もほころぶ四月。
入学式で賑わう高校や大学の校門前を横目に、俺も新しい扉を叩こうとしていた。それも、大学や高校なら3、4年で卒業できるのに、俺がこれから向かっていくのは、『卒業』まで何十年もあるという……か〜な〜り過酷な世界だ。
まっさらな黒のスーツと、清潔感を第一に考えた水色のネクタイ。最初の印象が肝心だって就活まとめサイトにも書いてあったし。最初から出る杭は打たれる……みたいなことはしたくない。
春の薄い青空の中、天にそびえたつコンクリートジャングル。青々と反射するぴかぴかの窓が所狭しと並んでいて、ガラス張りのエントランスをくぐりぬけるとそこには階ごとに所せましと色んな企業の名前が名を連ねているエレベーターに辿り着く。
低層階?中層階?高層階?にエレベーターが分けられてるなんて知らなくて、面接のときに大失敗をしたおかげで、今はちゃんと目的の階につくエレベーターに乗ることができる。
出勤時間ともあって、エレベーター前は長蛇の列になっている。内心溜息をつきながら最後尾につこうとすると、そこには見知った顔があった。少しだけ憂鬱な気持ちが晴れる。
「よ、三井!おはよ」
「おう」
背中をぽんと叩くと、その男は深い二重幅の瞳を一瞬大きくしたあと、小さく笑った。三井寿――。入社式で偶然隣の席だった同期だ。
隣同士になったよしみで世間話をしていると、どうやらバスケ部で大学まで続けていたらしい。俺も小学校の頃からサッカー一筋で大学まで進んだから、何だか親近感がわいた。
サッカーとバスケットボール。手と足を使うという差はあれども、一瞬の判断でパスを回していく所は似ている気もしたし、体育会の部活あるあるみたいな話で入社式のあとも大いに盛り上がった。
そして本当に偶然にも、同じ本社の同じ部署に俺たちは配属になったのだ。なんだか入社式から縁がある奴なんだなあと思って、たぶん三井もきっとそう思ってる。何十年も続くこの勤労生活のスタートは、俺的にはまずまずなんじゃないかと思っている。
「なあ~今日帰り飲みにいかねえ?」
今日はいわゆる花の金曜日……花金だ。なんかこういう言葉を使えるようになるのは、俺ってオトナになったのかな~なんて思う。
「今日?あー……」
「先約あるなら全然いいけど」
「いや、夜から家に来る奴がいて……」
「……夜から?」
俺の第六感がピンと閃いた。土日休みで、金曜の夜から家に遊びに来る人間……?そんな間柄、ひとつしかない。
あれだろあれ。アレしかねえんだよ……クソッ……三井の奴……そんな素振りひとつも見せてなかったのに『居る』のかよ……!
自分は就活時期に内定を貰った貰ってないでギクシャクして彼女と別れてから、半年以上そういうものから遠ざかっていたのに。むしろ学生と社会人になるときに別れねえカップルとか居るの!?どんだけ絆強いんだよ!
俺はにんまりと意地汚い笑みを浮かべたまま、三井の肩を小突いた。
「夜からっていってもさあ~?別に仕事終わってすぐ帰んなきゃいけねえってワケじゃないんだろお?日付越える前に帰れたらイイってやつ、だろお~?なあなあミツイくぅ~ん?」
「朝からうぜえ~絡み方すんなって!」
「ちょっとくらいお酒ひっかけて帰った方がノリも軽くなって色々と良いこともあるんじゃないですかあ~?」
調子のいいことを言っている自覚はある。無論、本音は三井のカノジョの話が聴きたいだけなのだ。いや、もうメチャクチャ聞きたい。聞かせてほしい。就活→破局→傷心のまま卒業単位取得→卒論地獄→卒業→入社……という、色恋沙汰から縁遠くなっていた自分には、他人のそういう話ですら聞きたい。どうか聞かせてほしい。というか聞かせろ!!
「一時間ちょいでいいから!な??先約から連絡くるまで!な?なあ??」
「まあ、いいけどよ……」
よっしゃ。俺は内心ガッツポーズをした。ほろ酔い気分の三井から色々聞いてやろう。そうほくそ笑みながら、俺は到着したエレベーターに颯爽と乗り込んだ。
◆◆◆
『……ほろ酔い気分にさせてやろう、ただそのつもりだったんです。魔が差してつい……飲ませすぎてしまったんです。故意にやったわけではないし、計画的犯行でもありません……』。もし俺が【三井寿に酒を飲ませすぎ容疑】で逮捕されることがあったとしたら、こんな弁明をすると思う。
ネクタイは緩まりよれまくれ、シャツのボタンはふたつほど開いた三井を眺めながら、俺は内心そんなことを思っていた。
あまりにも三井の飲むペースが速すぎて、まだ俺は肝心の色恋話すら聞けずにいるのに、三井だけは順調に立派な酔っ払いにジョブチェンジしている。こんなはずじゃなかったのに……!
「三井酔っ払いすぎじゃね……?もう水にしとけよ?」
「んんぅ~……」
「いや『んん~』じゃねえから……」
店員さんに持ってきてもらったグラスを差し出すと、三井はそれを一瞥したまま、またお猪口に口を付けようとするので、俺はサッカー部の頃に鍛えられた反射神経でそれを阻止した。
「だぁ~か~ら!やめろって」
「まだのめる……」
「ダメだっつーの……カノジョくるんだろ?」
「……カノジョぉ?」
三井がぽかんと呆けている。
もしかしてコイツ、酔っ払いすぎてカノジョの存在すら忘れかけてんじゃねえの?それって酔っ払い度的にかなりやばいやつなんじゃねえ?
仲良くしているとはいえ、俺は三井の自宅の住所はまだ知らない。本格的に潰れてしまったとき、どうしたらいいだろうか。そんなことを思っていた矢先、机に放り投げられていた三井のiphoneが通知音を立てた。
のろのろとした手つきで三井がその画面を見て、何かを返信している。
「……いまからこっちまでむかえにきてくれるらしい」
「え?カノジョが!?」
「カノジョ……ん、まあそんなかんじの」
「そんなかんじのって何だよ!失礼過ぎんだろ!カノジョはカノジョだっつーの!」
女に対してそんな適当な扱いで、なんで三井はフラれなくて俺はフラれたんだ!?人生の不条理ってこういうことなんだろうか。……まあいいのだ、今日は俺の傷心の話じゃない。三井の話を聞きに来たのだから。
ようやく話の流れがそういう方向になった今を逃すわけにはいかない。
「カノジョの名前、なんて言うんだよ?」
「んぁ……?かえで……」
「かえでちゃんかあ……♡」
かわいい。
名前からしてかわいい。いや美人かもしれない。
三井は男の俺から見ても、まあ見目はいい。180㌢以上の身長に、元バスケットマン。鍛えられた全身にバランス良くついた筋肉はスーツの上からでも端整な佇まいに見える。そんなこの同期の男に釣り合うくらいの女性なのだから、きっと見目麗しいに違いない。
「『かえでちゃん』美人だろ?俺にはわかるぜ……」
「ぁあ?美人ぅ?……ん、まあ……顔は、いい……と……思う…………ファンクラブみてえなのあったし……」
「ファンクラブぅ!?三井、お前さあ……え?そんな女どこでつかまえたんだよ!羨ましすぎるんだけど!?」
大学でミスコンとか選ばれたようなレベルの美人ってことだろ?いや、それ以上かも……ていうかファンクラブってまじで何……どんどん俺の中の『かえでちゃん』が超絶美人になっていく。
「つかまえたっつーか……高校のとき、バスケ部で……」
「高校!?そっか……『かえでちゃん』もバスケ部なんだな……」
「部活のあと、自主練でワンオン付き合ってたら、朝練も一緒にやることになってェ……んで……オレが卒業する前日に告白された」
「はあ~~~~!?」
まさかの『かえでちゃん』から!?
俺は驚きを隠せずに生ビールのジョッキを勢いよく机に叩きつけるようにして置いた。俺としては『かえでちゃん』に三井が縋って縋って、やっと付き合うことになったんだと勝手に思っていたからだ(三井ゴメン)。
始まりはそんな感じだったとしても、ファンクラブができるほど美人な『かえでちゃん』との交際が高校からずっと続いているというだけでも(嗚呼……『かえでちゃん』……美人で一途って最高かよ……)と思っていたのに、まさかの『かえでちゃん』から押せ押せのアプローチ、そして告白ときた。『かえでちゃん』……今、俺は混乱してます。
「っていうか卒業式って……?『かえでちゃん』って年下なわけ?」
「おー……二歳年下」
「高3の三井と高1の『かえでちゃん』!?それって犯罪じゃねえ!?」
「犯罪ではねえだろ……」
三井が水の入ったグラスを持ちながら笑う。まあ確かに、犯罪ではねえか……そうか……。
「つーか『かえでちゃん』ってどういう漢字かくの?」
「あ~?あの、木の……モミジ?の……の木へんのカエデ」
「嗚呼~……『楓ちゃん』か……漢字まで美しい……」
聞けば聞くほど、三井には勿体ない(失礼)気がしてくる。
「その『楓ちゃん』が今から迎えに来てくれるとかさあ……お前本当に羨ましすぎる……つか俺もこれから会うってことだよな……緊張してきた……」
「きんちょお~?」
ケラケラと三井が笑っている。三井にとっちゃカノジョが迎えに来るだけかもしれないが、俺にとっては笑い事じゃない。だって、『楓ちゃん』に俺がこんなになるまで飲ませたのかって勘違いされてしまうかもしれないからだ!美人に冷たい目で見られるほど悲しいものは無い……その誤解は絶対にされたくない。
俺は身なりを整えた。真っ黒なスマホの画面を利用して、心なしか髪の毛も少しセットしなおす。そんな俺の心情など一ミリも知らないであろう三井は、呑気におしぼりをころころと転がしていた。
そんな時だった。半個室になっている暖簾からぬっ……と男が顔をのぞかせた。切れ長の瞳に、長い睫毛。でもしぬほどデカい…男……。
えっ……誰……?
トイレから帰ってきて入る部屋間違えたとか?俺が動揺している間に、その男は無言のまま三井の方をじっと見つめている。え?三井の知り合い……?
「……あの」
「え?あ!はいっ!?」
突然話しかけられてびっくりしてしまう。190㌢はあるのでは?と思う長身は、窮屈そうに暖簾をくぐり中へ入ってくる。服装はスーツではなく、ジャージ姿だった。この体格だからスポーツでもやっているんだろうか。
「センパイ連れて帰る……っス」
「え?あ…………あ、三井のこと?あ、うんよろしく…………、って、え?!」
おかしい、ちょっと整理する時間が欲しい。今から迎えに来るのは『楓ちゃん』で、美人のカノジョのはずだ。
元バスケ部で、ファンクラブがあって、二つ年下で、一途な『楓ちゃん』……んん?今さっきこの男、三井の事を『センパイ』って言ったような……?
俺が事態を整理するよりも先に、三井が自分に近づく人影に気づいたらしい。
「るかわぁ~」
「……そんなに飲むなって言った」
小さく溜息をついたその男は、ひょいっと三井を担ぎ上げたので俺はまたビックリしてしまった。三井だってかなりタッパのある男だぞ……?それを軽々と……??もう何がどうなっているのやら、全然分からない。
いまだ固まったままの俺の方へ、三井をかついだ男がくるりと振り向く。
「っス……」
無表情のまま、ぺこっと頭を下げられる。ああ、どうも……なんて俺も反射のように頭を下げて、その男はまた暖簾を窮屈そうにくぐりながら出ていく。
三井が何かを言っているのが聞こえる。「おせえんだよお~」「練習で遅くなるって昨日から言ってた」「るかわぁ……」。甘え倒したような三井の口調が聞こえてきて、少しずつ小さくなっていく。そのあいだに、俺は少しずつひとつの可能性に辿り着こうとしていた。
「…………もしかしてあれが『楓ちゃん』……?」
キツネに化かされたような顔をしながら呟いた言葉は、誰にも聞かれないまま金曜の夜の喧騒に紛れていったのだった……。
end