【洋三】喪失に宿る青

 腕にやわらかい感触がぎゅうっと押し付けられているのが、なんだか他人事みたいに思えた。

半袖シャツを羽織った自分の姿が、閉店したショーウインドウのガラスに薄く反射している。

「ね、水戸くん……終電、行っちゃうけど…………いいの?」

 自分の肩くらいの身長。
 ゆるくウエーブがかかったセミロングの髪が夜風に揺れて、頼りなさげな、しかし物欲しげな顔でこっちの様子をうかがっている。耳元はふんわりと桃色に染まっていて、さっきまで吞んでいた酒の名残が抜けていないように見えた。
 

 所謂、合コンで意気投合し、何回か逢瀬を重ね、金曜の夜に終電を敢えて知らないふりをする男女なんて、今この時間、日本全国どこにでもいる二人だと思う。


――ただ、自分の気持ちだけを除いては。

「そっちはいいの?明日仕事とかじゃない?」
「うん、明日は休み。明日は夕方から試合見に行くから、それまでに一旦帰れたら大丈夫かな」
「……そうなんだ」

 細い腕時計が嵌められている手首をやわく掴んで、自分の方へと引き寄せる。ゆらりと揺れた細い彼女の身体を、それ以上何も言わせないように強く腰を抱き寄せた。
「みと、く……」
「…………」

 遠くの方で、最終電車が通過する踏切の音が鳴り響いている。忙しなく駅へ走っていく人々の声がBGMのように聞こえる。ここだけ切り取ったなら、月9ドラマの主人公のようになった気がして、何だか馬鹿みたいで可笑しかった。

「あの、え、っと……」
 頬を赤く染めて、潤んだ瞳で見つめる彼女に優しく微笑んで、静かに口付けた。
「明日、試合時間までに家に帰さなきゃ、ダメ?」
「……っ」
 明日の席、すごい前列が取れたんだよ。すごく楽しみ。そうやって笑っていた彼女は、明日の試合をいつもよりも楽しみにしていたはずだ。そんな彼女に敢えて、自分は試すような言葉を投げかけている。



 今、彼女の中で自分――『水戸洋平』という男が占める割合は、どれだけ『彼』に拮抗しているんだろう。そんな風に思いながら、水戸は彼女の項に顔をうずめた。 


■■■






「私、スポーツ観戦が好きで……!特に最近はバスケをよく見に行くんだ」
 彼女と出会ったのは、何の変哲もない居酒屋で開かれた、なんの面白みもない合コンだった。勤めている会社の同僚から頼まれた、いわゆる数合わせだった。『バスケ』と聞こえたその言葉に、胸の奥の、隠して爛れたままの部分が僅かに蠢いた。


「へえ、そうなんだ。どこか応援してるチームとかあるの?」

 顔面に貼り付けたような微笑みでそう返すと、自らの趣味に興味を持ってくれたのが嬉しいのか、彼女は目を輝かせた。
「どのチームでも試合を見るのは楽しいんだけど、やっぱ神奈川のチームって応援しちゃう。お気に入りの選手もいるし……」
「誰?教えてよ」
「ん~でも日本代表に選ばれるとじゃなくて、そこまで有名ってわけでもない選手だし……水戸くん絶対知らないと思う……」
「でも俺、高校の時親友がバスケ始めて、それでインハイまで見に行ったから結構詳しいかも」
「本当!?すごい、インハイまで行くとか、かなりの情熱じゃん!」

 鈴の音が鳴るような声で笑う。可愛い女の子だと思う。それなのに、水戸は彼女に対してそれ以上の興味が持てないことを自覚していた。いや、正確には『彼女』よりも『彼女が好きな選手』の方に興味の重きが置かれていた。
 手元に置かれていたジョッキを手に取って飲み干す。ガラスに汗をかいて生ぬるくなっていたそれは、やけに喉を焼くような味がした。


「じゃあ、言っちゃおうかな……えっと……名前、『三井寿』っていうんだけど、水戸くん知ってるかな?」
「……う~ん、ゴメン。知らないや。でもなんとなく名前聞いたことあるような気もするよ」
「やっぱりそっか~私も1年前まで知らなかったの……でもね、ぜったい見て欲しいの!バスケ好きなら!三井選手のここぞって時に決めるスリーポイント見たら、ぜったいカッコいいって思うよ!」
「へえ、ちょっと興味出てきたかも」




―――嘘だ。





 三井寿。その名前を忘れたことなんてなかった。

 彼のプレーがどんなに観客の心を惹きつけるかなんて、自分が一番よく知っている。
 汗だくになりながら、それでも高い弧を描いて放たれるボール。網目を通り抜ける音と静かに拳を握る姿。割れんばかりの歓声と、決して勝負を諦めない目。そんな試合とは裏腹に私生活は適当なことも多くて、まるでどちらが年上なのか分からないね、なんて笑ったこともある。

 体育館での練習前、指の爪を整えるときに伏目がちになる横顔が、何よりも好きだった。学生時代から、ずっと、ずっと。

 こんなファン歴も浅いのであろう女よりも、自分はずっと、三井寿のそばにいたはずなのだ。誰よりも負けず嫌いで、それでいて泣き虫で、それなのに人を惹き付ける不思議な男だった。あの一年にも満たない一瞬を、今でも自分は鮮明に覚えている。


 忘れていたはずの感情が、すべてが生々しく自分の周りに纏わり付いていくようで、隣の机から聞こえてくる酔っ払いの五月蠅い声が、急に耳障りになってひどく苛々した。


「あの……もしよかったら。来月の試合、チケットが二枚あるんです。いつもは自分の分しかとらないんですけど、なんとなく二枚とっちゃって。友達でも誘おうかなと思ったんですけど、水戸くん、バスケ好きなら一緒に行けたら……なんて……」
「……本当?俺なんかが一緒に行っても良いの?」
「勿論!いつもは一人で観戦してるから……なんか、ノリで二枚で取っちゃったけどチケット譲渡に出さないとなあ……とか思っていたところだったんで。知ってる人が隣だと心強いし、一緒に盛り上がれるかなあって……」
「ありがとう、じゃあお言葉に甘えて」
 人当たりが良いと評判の微笑みを返すと、彼女はうれしそうに笑った。
「水戸くんと試合見に行けるのすっごい楽しみ!」
「俺も楽しみだよ」










 ベッドに、彼女の髪が乱れて散らばる。互いの服は廊下の当たりに脱ぎ散らかして、軋むスプリングの上には肌を触れあわせた男と女しかいない。

「みと、くんっ……っ、ぁ……」

 ブラのホックをはずして、緩くなった肩紐に手を掛けて外す。彼女の華奢な鎖骨当たりに口付けを落とすと、甘い声をあげたあと、小さく名前を呼ばれた。

 みとくん。みと、くん。……みとくん、すき。

 嬉しそうな弾む声で『三井選手』と紡いでいた口が、今は自分の名前だけを呼んで身体をしならせている。『あの人』よりも自分を呼んで、自分だけを瞳に写して、自分に組み敷かれて悦んでいる。

 腹の底から、沸き立つような高揚感と、どす黒い征服感が自分を包み込んでいくような気がした。
 彼女の汗ばんだ肌が、学生時代の『彼』とぶれて重なる。試合で汗だくになった身体、端正に鍛えられたその体格と比べると細身の腰を掴んで、下半身を押しつける。そんなありもしない妄執に、想いを馳せる。

 記憶の中の三井寿は、いつだって自分に笑いかけている。そんな彼のことを自分は好ましく思っていて、彼が美しいシュートを放つたび、誰よりも誇らしかった。そして、美しいが故に最後まで自分のこんな気持ちを伝えることはなかった。
 大事だったからこそ、自分の気持ちに蓋をしたのだ。 

 そんな自分の前に、堂々と『彼』の事が好きだといえる彼女が現れた。
 羨ましかった。なんの躊躇いもなく『彼』に対しての好意を不特定多数に言える立場が羨ましくて……恨めしかった。
 彼女の中から『彼』を忘れさせられるなら、何をしてもいいと思った。我ながら最低な事をしている。こんなことをして何の意味があるのか。いや、何の意味すら無い。
 自分と彼女、どちらも幸せになんてなれない。わかっていても、凶暴なまでに揺れ蠢く感情を止めることができなかった。そして自分は、極めつけの言葉を放つ。



「今……何考えてる?」
 潤んだ瞳がこちらを見つめて、くしゃりと笑った。
「みと、くんのこと……だけ、しか……かんがえられないっ……」

 あえかな吐息とおもに零されたその言葉は、性の劇薬のように水戸に充足感を与えてくれる。
 まるで愛おしい恋人の髪を撫でるような手つきで、水戸は優しく彼女に笑いかけた。











end