校庭のスピーカーから流れる賑やかなBGM。ホイッスルの音や生徒の歓声が遠くに聴こえる。
紅組、がんばれ。白組、負けるな。日本の運動会の歴史の中で途絶えたことがないであろう『天国と地獄』の軽やかなアップテンポから『トルコ行進曲』に曲調が変わり、三井はゆっくりと目を瞑った。うわ、モーツァルトだ。幼少期にひたすら通わされたピアノ教室を思い出して、うっすらと苦笑いしてしまう。
小学校を卒業すると共にピアノの稽古事から解放されていなければ、今でも自分はショパンとモーツァルトの事を親の仇かとばかりに恨んでいるだろう(主に、なんでこんな細かくて難しい楽譜を書いたんだ!という点で)。
未だに、目を瞑っていても脳内に楽譜が流れる。無意識に指が空の鍵盤を叩いてしまうのもご愛敬。今ではバスケットボール以外に使っていないこの指先は、かつて半ベソをかきながらピアノの鍵盤を叩いていた。ショパンとモーツァルトの事は恨んでいたけど、何故かベートーヴェンのことは好きだった。月光の第一楽章を弾いてどこかダウナーな気持ちになるオレ、格好いい。中二病の如く、そんな風に思っていた黒歴史も忘れられないのだが、数ヵ月前に自分が起こした体育館の襲撃事件という大・大・黒歴史と比べたら些細なことだろう。
閑話休題。
砂埃が舞うグラウンドの中心から遠く離れたこの場所は、昼寝に絶好のスポットだ。大きな木の幹に背を預ける。秋晴れの空、秋風にそよそよと揺れる枝葉が心地よい影を作っている。そこに腰を下ろすと、三井はハチマキを外して小さく溜息を付いた。
湘北高校はクラス内で紅組と白組に分かれるという珍しい分け方をするらしい。『らしい』、というのは、三井にとって今回が初めての湘北高校での体育祭だからだった。「三井は紅組ね!」「イイ感じに巻いてあげるからさ!」と女子たちに囲まれ、なかば強引に巻かれたハチマキは本人の希望しないままに器用に結ばれ、猫耳のカチューシャのような形態になっていた。おい!オレ知らねえぞこんなの。オレこれで今まで過ごしてたってわけ!?徳男に「三っちゃん!そのハチマキすごくいいよ!写真撮って良いかな?」なんて言われたし、イケてると思っていたのになんたることだろう。後であの女子たちにクレームをつけなければ。三井は心に誓った。
またしても話が脱線してしまったが、三井は今、絶賛体育祭をサボり中なのであった。何故か。理由は一つだ。午後に向けての体力温存である。
昼休憩を終えると何があるのか。そう、運動部の部行進と部活対抗リレーである。
部行進も部対抗リレーも、別に紅組に点数が入るわけでもない。紅白はもちろんのこと、クラス対抗のポイントになるわけでもない。それでも、負けるのだけは絶対に嫌だ。できればカッコイイ所を見せたい、他の運動部に負けたくねえ(これは主に桜木と宮城の談)。そういう反骨精神の塊のような男ばかりが集まるバスケ部が部対抗リレーに本気にならないわけがなかった。
昨日は普通の練習終わりにバトンパスの確認をしたくらい本気なのだ。……特に新キャプテンの宮城が。宮城よ、そこまでやるか?と思ったが、宮城に「先生に、1位でリレー優勝するの見て貰いたくないんすか?三井サンは」と挑発され「当然見て貰いてえだろ!」と大声で拳を握りしめてしまったため、昨日のバスケ部のバトンパス練習の光景はまるで大会前の陸上部だったらしい(これは桜木の友達の水戸洋平の談)。
三井とて安西先生が見ている前で、バスケ部が脚光を浴びている所は是非お見せしたい。ただ如何せん、この炎天下の中ずっとクラスの待機場所に座っているのは疲れてくる。午後までに体力を消耗するわけにはいかない。そこで、ここに退避してきたというわけだ。
決してむやみやたらにサボっているわけではない。れっきとした体力温存だ。
(二十分だけ……なら、いいよな)
三井が静かに目を閉じた、その時だった。
「センパイ、こんなとこで何やってんの」
不躾なほどに敬語を覚えないその声の持ち主。その声色が誰かなんて、すぐに分かった。分かってなお、それでも狸寝入りを続けていると、再び「オイ」と少しだけ語尾を強めた声で呼ばれる。
「……オレの眠りを邪魔する奴はなんびとたりともナントカカントカ……」
前に徳男達から聞いた彼の名言で茶化すと、憮然とした表情で返される。
「それ、オレのセリフ」
「てかさ、お前、その前に先輩に敬語使えってお前は何回言えば分かんだよ」
「敬語ちゃんと使ってる、……です」
「下手くそか」
取ってつけたような語尾に思わず小さく吹き出してしまうと、ム……と何か言いたげな表情でじっと見つめてくる。
「宮城キャプテンが、昼前にバトンパスの最終確認するって。アンタが三年のクラスの所に居ないから探してこいって言われた」
「あいつ本当に燃えてんだな……リレーのバトンパスもいいけど、ミドルレンジのシュート精度もっと上げろっての」
水戸が揶揄うように、湘北高校バスケ部は昨日から半分陸上部なのでは?と思うほどリレーの練習ばかりしている。この場所に宮城が居ないのをいいことに軽く揶揄うと、流川も小さく頷いた。
「外から点入れてくるガードは強い」
「今のディフェンス力じゃ冬選抜は勝ち抜けねえかもしれねえからな。得点力上げねえと」
「でもまずは今日のリレー。やるからには何でも勝つ」
「まあな~確かにそうなんだけど……直射日光が暑すぎてよ……」
蒸し風呂みたいな体育館の暑さには日常茶飯事でも、ぎらぎらと焼け付くような太陽の暑さには慣れていない。自分のスタミナの無さも相俟っているのかもしれないが、今の三井は勝利の為のバトンパス練習よりも体力温存するほうに気持ちが傾いている。そんな三井に流川は小さく鼻を鳴らした。
「センパイの課題はスタミナ不足」
「うるせー!お前だって人のコトいえねーくせに」
木に凭れたまま渋い顔をすると、炎天下に居るとは思えないほどの涼しげな顔でさらっと流された。流川だけにしれっと『流』す……と一瞬でも思ってしまった自分の思考回路がちょっぴり恥ずかしい。
「センパイがちゃんとバトンパスの練習して、部対抗リレーでオレ達バスケ部が1位を取ったら……」
「……取ったら?」
「きっと安西先生も喜ぶ」
「んん……それは分かってんだけど……」
「センパイは先生に喜んでほしくない?」
「そんなわけねえだろ!安西先生の為なら……オレは何だって!」
「じゃあ、安西先生に喜んで欲しいならオレと一緒に来て」
「…………」
恩師の喜ぶ姿を撒き餌に釣り上げられたような気がして腑に落ちない所はあるものの、三井は渋々頷いた。
三井が寝転がっている木陰に入り込んできた流川は、どんと仁王立ちをして見下ろすようにこちらを覗き込んでいた。葉の隙間から差し込む太陽の光で、紺碧の髪がやわらかく陽に透けている。
睫毛の長い凛とした瞳。端正に整った鼻筋。精巧に神様が作ったとしか思えない顔面と、一年生の時点で自分を越している身長。これからもっともっと背は伸びるだろう。
(本当に黙ってたら芸能人みたいだな、こいつ)
黙っていたらというのは、三井のちょっとしたプライドが素直に認めたくないと心の中でへそを曲げているからである。自分だって中学時代は全校の女子から『三井くん格好いい!』と目をハートにされていたというのに、今や自分は女子のイジりやすいクラスメイトと化している。この違いはなんだ。
恨めしげに流川を見上げたその時、ふと流川の姿が朝と違うことに気づいた。間違い探しのようなかすかな違和感が、三井の脳裏をかすめる。
「あれ?そういえばお前、白組じゃなかったっけ?」
「……さあ?」
「朝の開会式でバスケ部集まった時に、お前……白組だった気がすんだけど……あれ?オレの勘違い?」
三井は紅組で、流川は白色のハチマキを手に持っていた気がした。ああ、白組っぽいよなアイツ。なんて無作為に分けられているはずの紅白分けに対して謎に納得してしまったのだが、自分の記憶違いなんだろうか。
「センパイの気のせい」
「そーか……?ま、何でもいいけどよ」
「早く用意して」
「へいへい、うるせー後輩だなホントに」
三井は知らない。
開会式の前に見かけた三井の髪に巻かれた赤いそれを見て、内心少しだけ落胆した流川の心の中のこと。
同じクラスの石井の持つ赤色のハチマキをじっと見つめ、「……替えて」と短い言葉ながら断固として引かない交渉をしたこと。
クラス内で白組だった女子達が、私も紅組に替わるアタシも替わると大騒動があったこと。
桜木に「キツネお前も天才と同じ紅組になりたかったのか!」等と挑発され、朝から小さい喧嘩沙汰を起こしたこと。
ここに来る前、三井を探しに行こうとしていた宮城に『自分が行く』と挙手したこと。
「おい流川、お前が急げって言ったんだろ?置いてくぞ~」
グラウンドのほうからまた甲高い歓声が聞こえる中、三井の背を追いながら、流川はこっそり口元を緩めた。
END