続・タイムマシン十四号

 なんだこれ。


 宮城リョータは自分の目を疑った。自分の目が長時間のブルーライトで疲れたのかと思い、ぐぐっと眉間を指のはらでほぐす。
 きっと幻覚を見たんだ、そうに違いない。頭の中で宮城は言い聞かせた。心臓はバクバクほどではないが、あきらかに動揺していた。それでも、平気なフリをするのは得意だ。何事もなかったかのような顔をして、静かに深呼吸をした。喉の奥のほうでよし、と唾を飲み込みうっすらと目を開ける。そこには、やはり『そのサイン』が堂々と当然の如く鎮座していた。

 自分が所属している東海岸の某チームとは反対の都市。LAにあるかつての後輩が所属しているチームのInstagramが意気揚々とツイートしたカエデ・ルカワの月間MVPを記念したサイン入りのグッズ。
キャップにパーカーにマグカップ……オシャレにレイアウトされているそこに書いてあるサインを、宮城はよくよく見たことがあった。どこで見たかと言えば、湘北高校男子バスケットボール部の部室である。
 ただ、それはかつての後輩である流川楓が書いたものではない。そもそも、当時からバスケットボールだけできればいい、という地位も名声も給料も無頓着な男が、サインなど考えるはずもない。
そう。そのサインは宮城の一つ上の先輩……三井寿のものだった。

 英語ではなく、日本のプロ野球選手が良く書くような漢字を上手く崩したそれは、英語を主とするこの国では何の疑いもなく『カエデ・ルカワのサイン』だと受け取られたんだろう。それでも宮城には分かる。これは三井寿のサインだ。この上の方に三本横に並べられたこの線……どう見ても三井の『三』だ。どう頑張っても流川の『流』のさんずいには見えない。何考えてんだ流川。どうすんだよ三井サン。
 怖いもの見たさで公式アカウントの投稿に付けられていたハッシュタグを辿ると、様々な十代から二十代であろう金髪碧眼美女たちが、『三井サンのサイン』が印刷されたパーカーを羽織り、セクシーなポーズで写真を撮っている姿がどんどん出てくる。

 やばいぞ、結構このグッズ売れてんじゃん。ていうかバカ売れしてんじゃん。大バズリしてんじゃん。宮城は少しずつ、事の重大さに気づきつつあった。

 スマホを持ったままうろうろと散歩前の落ち着きのない犬の如くリビングを二周くらい歩き回ったのち、宮城はLINEのアプリを開いた。
 こちらは朝の十時前だから、おそらく日本は夜の八時前だろう。今は会社員として働く彼が残業中でないことを祈り、宮城はかすかに震える手で通話ボタンを押した。平気なフリをしても、手がちょっぴり震えてしまうのは昔からの癖で直しようがない。プププ……と機械的な音が何秒かなったのち、プツっと途切れて雑音が聞こえた。


「よお、久しぶり。いきなりどーした?」


 サインを盗用(?)された当の本人はいたってのんびりとした様子で宮城の着信に応じたらしい。ふわあ、と欠伸の声まで聞こえるのだから大物だと思う。
それとも、この騒動に気づいていないんだろうか。アメリカでは大変なことになってんだよ、三井サン。LAでは流川のサイン……つか、アンタのサインをパーカーやキャップで身にまとった金髪美女がウロウロしてるよ。アンタのサインだけが、世界規模に知れ渡ってるよ。欠伸なんてしてる場合じゃねーよ。そもそも日本はまだ夜の八時前位だろーが。まだ寝るには早いだろ。……そんな言葉をマシンガンのようにぶつけそうになった自分をグッと堪えて、宮城は深呼吸した。
 十代の頃と違って、ずいぶん自分も大人になったなあと思う。我ながらあっぱれだ。

「三井サン、落ち着いて聞いて」
「え、何……お前もしかしてとうとう彩子と結婚すんのか!」
「違うし!今季ポストシーズン終わったらそろそろとか思ってるけどまだ言ってねーし!!」
「あ、そう?」


 万が一にでもアヤちゃんにバレたら困るから誰にも言ってなかったのに、ついペロッと喋ってしまった。けろっとした声色から、どんな表情をしているのか手に取るようにわかる。
 くそ、絶対に他に漏らすなってあとで念を押しておかないといけない。ただ、自分にはそれよりも先に伝えなければいけないことが沢山あるのだ。


「てかそんなんで連絡したんじゃなくて。三井サン、落ち着いて聞いて。意味わかんないと思うけど理解できるように努力して。……あのさ、流川のサインがどういうことか、アンタが高校の時によく窓に書いてたサインにすり替わっちゃってる。オレも今自分で何言ってんのかわかんなくなりそうになってるけど事実だから受け止めて」


「…………」


 相手先の反応はない。そりゃそうだろう。第三者の宮城だってまだ混乱しているのだ。それが当人だと尚更のことだろう。それでも宮城は伝えなければならない。そして、上手い事、なんとか『三井サンのサイン』を公式に『カエデ・ルカワのサイン』として本人に認めてもらわないといけない。それも円満に、だ。使用料とか著作権だとかそんなものは後追いで良い。取り敢えずは、当の本人である三井サンが納得することがまず第一なのだ。


 サインを盗用した側と盗用された側……その間を取り持つことが出来るのはきっと、彼らと一緒に高校時代を過ごし、新チームのキャプテンも務めた自分しかいない。宮城は覚悟を決めていた。元チームメイトとして、元先輩と元後輩がこんなサイン盗用なんかで仲違いしてほしくないのだ。

「三井サン、続き、いい?」
「…………」


 返事はない。それでも宮城は伝えなければならない。謎の使命感に背中を後押しされながら、宮城は深呼吸したのち、口を開いた。


「そんでさ、その流川……つーかアンタのサインがこっちでグッズ化されてんの。で、大バズリしてバカ売れしてて、ロスでティーンエイジャーの女の子たちの間でに大流行してる」
「…………」
「三井サン……気を確かに持ってほしい。そりゃびっくりするし、なんでオレのサインが……ってなると思う。それでもさ、オレは思うんだ。流川だって別に悪気があってアンタのサインをパクったわけじゃないのは、同じチームだった三井サンだったら分かるでしょ?きっとなんも思いつかなくて、咄嗟に頭に浮かんだのがアンタのサインだったんだと思うし、それがこんなにもグッズ化されてLAの女の子たちに大流行するなんて思ってもみなかったんだと思うし……だからオレは、アンタと流川に円満に和解してほしいと思ってんだよね……」

 その瞬間、音声通話のみだったはずの黒い画面がパッと明るくなった。
 何、ビデオ通話?画角が定まらないのか画面がグワングワン動いているのをぼんやり見つめていると、インカメに切り替わる。宮城の目に飛び込んできたのは、大・大・大笑顔の三井と、その頭にかぶっているキャップと羽織られたパーカー……自分が十分前に見た『三井サンのサイン』が刺繍されたキャップに、『三井サンのサイン』が印刷されたパーカーだ。

「え、え……?」


 急な展開に脳が付いていかない。


「どうだ、似合ってんだろ?」
「似合って……いやいやいや!アンタなんでそれ!つか流川がサイン使ってること知ってたの!?」
「おう、リアタイでNBAの配信見てたからな」
「リアタイって……」


 日本だとかなり時差があるし仕事だってあるだろうにリアタイで試合を見ていることも衝撃だったが、まずは意気揚々とグッズを身に纏っていることをつっこまなければいけない。


「それ買ったの!?」
「や、流川に貰った」


 もうお互いに公認なの!?さっきから驚愕の事実に開いた口が塞がらない。


「カッケーよな、こんなオシャレなグッズになっちまって。ほら、マグカップもある」


 両手で二つのマグカップを持ち、わざと可愛い子ぶるようにきゅるんと頬に寄せるポーズをする。アヤちゃんならまだしも、そんなポーズをとる184cmの大男なんて1mmたりとも興味はない。


「ってことは、流川に対してサイン勝手に使った事を怒ってない……?」
「ん?おう。別に全然。むしろオレのサイン入りグッズがアメリカで大流行してるなんて、面白過ぎて一生笑えるし」
「それならいーけど……でもさ、よく流川がアンタの高校時代のサインを覚えてたモンっすよね」
「あーそれな。オレも窓に書いただけなのによく覚えてたなーって言ったら、アイツが渡米する前日オレとワンオンしたあと、そこで使ってたボールにオレがサインしたらしくて」
「へえ……」
「んで、『オレの代わりにこれアメリカに連れてけよ』って言ったら、アイツ律儀にそのボールをずっと寮の部屋に飾ってたらしいんだよ。そんでサイン覚えたんだと」
「へ、へえ……」


 三井の思い出話を聞きながらうっすらと思い出す、自らの十代の記憶。
 宮城も同じようなシチュエーションを経験したことがあった。このボールをオレだと思って持ってて。日本に帰ってきたら、誰よりも先にアヤちゃんに会いに行く。そんでアヤちゃんが大事に持っててくれたこのボールで、前よりももっともっと上手くなって成長したオレを絶対見せるから。遠く離れてもオレのこと忘れないで……アヤちゃん。


 二人が両想いになってからすぐに訪れた旅立ちの日の前日、淡い青春の一ページである。それとほぼ似たようなことを、自分の先輩と後輩はやっていたというのか。それってどういうことなんだ。


 ぐるぐるとショート寸前の思考回路の宮城のことなど知る由もなく、三井は湿気ゼロのカラッとした笑顔のままこっちに向かってピースなんかしてくる。ばかやろう、こっちの気持ちもちょっとくらい考えて欲しい。宮城の想いもむなしく、画面越しの男はまたしても大きな欠伸をしていた。
 だから、まだ日本は夜の八時でしょうが。もう眠いとか小学生かよ。

「三井サン、さっきから欠伸すげーするよね。もう眠いわけ?」
「えー、だってよお東海岸は昼前かもしんねーけど、こっちはまだ朝の7時だぜ?お前の着信に起こされたし……」
「え?」


 どういうことだ。自分とて遠距離恋愛の身。日本との時差はよくよく分かっているつもりだ。それなのに、朝……?


「……三井サン今どこにいんの?」
「ロスだけど」
「は?」
「だから、ロサンゼルス。エル・エー」
「いやロスは全然分かるけど分かんねえ。え、え?どーゆーこと」
「いま流川ん家に泊まってるから」
「は?」
「いや、有給消化して今アメリカきてんだ。試合のチケットも航空機のチケットも手配してくれたから、いーかなって」


 な、流川。画角の外にいるらしい男に呼びかける声が聞こえ、のそっ……と冬眠明けのクマのごとく、寝ぐせのついたままのジャパニーズクールビューティーことカエデ・ルカワが三井の肩越しに現れた。


「お、おう……流川……ひさびさ、だな……」
「うす」
「ごめんな、寝てたのジャマしたか」
「どっちにしろセンパイが隣でうるさかったら電話してる声でもう起きてた」
「おお、そっか……」


 そこで宮城は、はたと気づきたくない事に気づいてしまった。気づかなければとも思った。けれども、覆水盆に返らず。It is no use crying over split milk……だ。ええいままよ。宮城は今日一番の勇気を振り絞った。


「なあ……お前と三井サン、さあ……同じベッドで寝てんの?……いや、まさか」
「……?そーすけど」


 開けてはいけないパンドラの箱を開けたらこんな気持ちになるのかな。宮城はこの一瞬のうちにそんなことを思った。尚且つその事実の肯定は、まるで当人たちからすれば太陽が東から西に昇る事実のように、当たり前のことのように頷かれている。あ、そっか。当たり前か。高校の時の先輩が泊まりに来て同じベッドで仲良く寝るのって当たり前かぁそっかそっか~~。……いや、そんなワケあるか!
 宮城リョータの電光石火の思考回路が、ある一つの答え(※辿り着きたくはなかった)を唐突に脳内からはじき出した。

──この二人は、付き合っているのではないか。

 そう思うとすべての事象に納得がいく。
 『三井サンのサイン』を自分のサインのごとく書いたのも恋人といつも一緒にいるという気持ちを全世界に匂わせたということだ。
 そもそも二人でワンオンしていたバスケットボールを、遠路はるばるアメリカの地で流川が丁寧に飾っていることからしても察せるではないか。

 そう思った途端、宮城は背中にうっすらと冷や汗をかきはじめた。え、もしかしてオレって今、この状態って……同衾している恋人同士が微睡み合う朝を完全にジャマしてるってこと?てか一緒に寝てたベッドの上からビデオ通話する精神ってどういうこと?
 どちらにせよ、完全に自分が場違いのシチュエーションに遭遇している事だけは分かる。

「なんか、すいませんね……『お楽しみ』の所……」
「は?何言ってんだお前」
「いや、その……だって、アンタと流川……付き合ってんでしょ?」

 液晶画面に映った垂れ目がちの二重が大きく開かれる。一秒、二秒、三秒。数秒間の気まずい沈黙が流れたあと、聞こえてきたのは何かが爆発したような大笑いだった。

「はあ!?何言ってんだお前!新手のジョークかよ!!」
「え?え?」
「オレと流川が付き合ってるだあ?ンなわけねーだろ!」
「いや、でも」
「なあお前も何か言ってやれよるかわぁ!」
「ウス、付き合ってねーす」


 笑い転げて腹を抱えてベッドの上をのたうち回る先輩に代わって、無表情に寝ぐせオプションの後輩である流川がコクコクと頷くのが見える。


「はーーおもしろ、お前もジョークとか言うんだな」
「宮城キャプテン、おもしれー」
「え、いやオレは……」


 現実的な事象をもとに、まっとうなことを言っただけなのですが。そんな言葉は三井の大笑いでかき消されていく。

「あー笑った笑った!ま、そんなとこで。心配させて悪かったな。オレのサインがもっともっと世界中に知れ渡るのを楽しみにしておいてくれよ」
「ウス、おつかれさまっす」


 目尻の涙を拭きつつ手を振る三井と、その三井の肩の上に顎を乗せてコクン、と頷く流川。その映像を最後に、ビデオ通話は終了した。





◆ ◆ ◆


 さっきまでの喧々囂々とした騒がしさと対照的に、誰の声もしないシンとした自室に時計の秒針がカチ、カチと時間を刻む音が聞こえる。沈黙したスマートフォンの黒い画面をじっと見つめると、自分のこわばった表情がうっすらと反射されて見えた。

「……どんなホラーよりも怖い、無自覚ってあるんだな……」

 しかもお互いに自分の事も相手の事も全然気づいてない。
 宮城はおそろしいものを見た記憶を頭から一秒でも早く消し去れるよう、そっと手を合掌して天に祈ったのだった。