百億光年先で待ってて

 砂でざらついたボールの感触は、母の揚げたおやつのシュガードーナツと似ている。


 そんなどうでも良いことを考えながら、流川楓は手のひらでボールをパンパンとはたいた。晴天の空。太陽は少しだけ西に傾いている。時計を持ってきていないので分からないけれど、おそらくおやつの時間は越えているはずだ。それでも家に帰ろうと思えないのは、久々にこの公園のコートが全面ともに空いていたからだった。いつもならば誰かがどちらのハーフコートでもミニゲームをしたりしてなかなか自分の思ったような練習ができない中で、今日は珍しく誰も訪れない。


 それは季節柄もあるかもしれない。秋を越え、冬を間近に感じるこの気温の中、敢えて外でバスケをしようという気にならないのだろう。それは流川にとっては有り難いことこの上なかった。むしろこうやって空いたストバスのコートを好きなだけ使えるのなら、ずっと冬でもいいと思ってしまう。


 息をつくと、少しかじかんだ指にほんのりとあたたかな息がかかる。古ぼけたベンチに置かれたままの黒いランドセルが、西日に照らされて長い影を作っている。


「…………三人、抜き」
ボールを二、三度バウンドさせたあと、自分の脳内で架空の相手を目の前に想像する。ふうっと息を吐いた。ダムダムと緩いドリブルでリズムを作り、ハーフラインからぐいっと左に早く切り返してまずはPGを振り切る。そしてカバーリングに来た敵のSFをかわすように、インサイドに切り込むようにドリブル。Cのブロックをかいくぐって、左から巻き込むようなステップでレイアップを決める。
 ボードに当たったボールはイメージ通りのまま、網の中に吸い込まれた。バウンドして転がっていくボールを追いながら、小さく拳を握る。想像の中の敵はいつだって流川の好敵手だ。でも、それが同世代に居ないもどかしさ。ミニバスの試合では満足できない歯がゆさをいつも抱えている。

 もっと強い相手とマッチアップしてみたい。ストバスのコートでお遊び半分のミニゲームに誘われても仕方が無い。格上の相手と、本気の一対一をしてみたい。
 それは中学にあがれば叶うのだろうか。そんなことを考えていた矢先、背中を向けている方向からパチパチと乾いた拍手の音が響いた。

 振り返ると、見たことの無い少年がボールを小脇に抱えてこちらを見ていた。
 長袖一枚の流川と違って、その少年はパーカーにアウターをかさね、なおかつネックウォーマーまでしているという完全防備の防寒着姿。
 誰がどう見ても寒がりに違いないのに、こんな気温の中で此処に来るというのがなんとなくチグハグさを感じて不思議な気持ちになる。少し垂れ目な琥珀色の二重の瞳が細められる。爽やかに短く切りそろえられた甘栗色の髪が、木枯らしに吹かれてふわふわと揺れていた。


「良い動きすんじゃん、お前」
「…………」
黙ったまま頭だけぺこりと下げると、少年は少しだけ瞠目したあと、声を上げて笑った。
「ああ、ワケわかんねえよな。いやなんかここ最近さあ、愛想は悪ィけどセンスはある小学生にばっかり会うんだよ」


 そんなこと言われても、自分以外のその『小学生』は誰なのか流川には全く分からない。褒められてるんだか貶されているんだか分からないその言葉に、少しだけ眉根を寄せると、まるで謝罪とは言えない声色で「ゴメンって、機嫌直せよ」と返された。
「小学生……だよな?そこにランドセル放ってるし」
「……小6」
「へえ、結構デカいからランドセル無かったらタメくらいかなって思った」


 そう言うと、その少年は小脇に抱えていたボールを何回かバウンドさせる。くるりと左手首で回転させたのち腕をしならせるようにして放たれたボールは、美しい弧を放ってどこにも掠らず、ゴールネットをわずかに揺らしただけの完璧なスリーポイントシュート。


「スウィッシュ……」
 思わずぽつりと呟くと、その男はニコッと笑って流川の持っているボールも寄越せというようなジェスチャーをしてくる。その意図をくみとりボールを投げると、軽やかにドリブルをして反対のコーナーへ駆けていく。
 そこから一瞬のタメもない素早いフォームからのスリーポイントは、ほぼ角度の無い位置からこれも見事にネットに吸い込まれていった。余韻を楽しむように右手をふらふらと揺らして。ふうっと白い息を吐いている。


「アンタ……」
 もしかして、すげーヤツなのか。流川がそう言葉を続ける前にボールをパスされる。両手でバチンとボールを掴んだと同時に、その男が腰を低くして目の前に対峙してきた。


「ウォーミングアップ終わり、ってな」
 いたずらを思いついたような焦茶色の瞳。少し傾いた太陽が、両手を伸ばしたディフェンス姿の少年の影をコートに浮き上がらせる。
「やろうぜ、1on1」
 いつもなら、お遊びの延長線上のようなそういう誘いはつねに断っている。それなのに、今日は何故か無性にこの男と対峙してみたくなる自分がいる。


 さっき見たあの美しい二本のスリーポイントシュートが脳裏に焼き付いて離れない。自分がこれまで脳内で作り上げてきた、どんな仮想のライバルよりも美しい弧を描いて放たれたあのシュートを、自分のディフェンスでブロックできるかもしれない。いや、もしかすると出来ないかもしれない。
 NBA選手のような雲の上の存在ではなく、身近に、リアルに感じられる好敵手。それが今、十一歳の流川楓の前に初めて現れたような気がした。

 ちりっと肌がひりつく感覚。どんな手札やテクニックを持っているか分からない相手に、向かっていくこのワクワクした気持ちは、クラスメイトがこぞって遊んでいるアニメのカードゲームなんかより数倍も、数十倍も面白いと思える。大きく深呼吸をして、流川は右足を大きく踏み出した――。



 ヒュウヒュウとした息が喉を通っていく。
 若干鉄の味がする唾を飲み込んで、流川はコートの真ん中にしゃがみこんだ。もう何回繰り返したか分からない。ドリブルで抜こうとすると止められる。外から打とうとすると長い腕に視界を遮られてしまう。ディフェンスも散々だった。


 あんなに綺麗なスリーポイントを見せたくせに、中に切り込んでくる速さに腕だけしか追いつけない。腕がシュートモーション中の相手にぶつかる。少しバランスを崩したものの、その男の放ったレイアップは危なげなくゴールに吸い込まれていった。「おいおいファウルだろ今の!バスカンな」楽しそうな声色で抗議してくる言葉に、さすがの流川も言い返せない。どう考えても誰が見てもディフェンスのファウルだ。おしなべて、流川の全敗だった。
 冬にもかかわらず、汗が噴き出てくる。しゃがみこんだ鼻筋をつうっと通り、コートに一滴の汗が垂れるのを荒い呼吸を抑えられないままぼうっと眺めていた。


「おいおい、もう終わりかあ~?」
からかうような声にキッと顔を上げると、その言葉とは裏腹に優しく手を差し出される。
「おつかれ」
「……っす」


 ぐいっと身体をひかれて立ち上がらされる。コート側のベンチに腰を下ろすと、その中学生の男も同じように流川の隣に座った。ぶらぶらと足を揺らしながら、夕焼け空を見上げている。
「お前、センスいいからあとはスタミナだな~。後半、あきらかにバテて集中力無くなってたし」
「スタミナ……」
「そ。ミニバスと違って試合時間も長くなるし。スタミナあって困ることはねえだろ?って……小学生だからそもそもの体力もあるだろうけどよ。よく食ってよく寝てよく動いて……って今からやっとけば、中学入ってもそこそこやれんじゃねえか?」
「ナルホド」
「あとは外からのシュートコントロールかな。お前、中に切り込んでく速さはあるんだから、それ警戒されたときに外からも打てたらマジで無双状態になると思うぜ?スタミナとコントロール。分かった?」
「スタミナと、コントロール……」
 頭の中に大きく『スタミナ』と『コントロール』という二つの単語がゴシック体で浮かび上がる。それと同時に頭の片隅にある『シュガードーナツ』……おそらく帰ったらおやつとして食べれるだろうその三つの単語がふわふわと雲に浮かぶように揺れている。


 中学校に上がれば、こんなプレイヤーが沢山居るんだろうか。早く中学校に上がってバスケがしたい。少し落ち着いてきた心臓をそっと左手で撫でて、流川はその少年の足元を何気なく見つめた。ホワイトを基調とし、誰もが知っているナイキのブランドマークと各所にブラックを差し色に入れられた真新しいバッシュ。彼にしっくりと合っているような気がした。


「その靴……」
「ん?……あ~このバッシュ?格好良いだろ?」
「なんていうやつなの」


体育館用は流川もちゃんとしたバッシュを買って貰っている。けれど、外用のものはいまだ普通のスニーカーしかない。単純にデザインが格好良いのと、何故か彼が履いているものを履いたら自分も同じように外からのシュートが上手くなれるんじゃ無いか、なんて信憑性の無いことをちらりと考えてしまう。


「これ?ナイキのエアマエストロ」
「えあ、まえすとろ……」
「ブルズのスコッティーピッペンのモデル。NBAの試合とかお前、見たことある?」
「ある」
「ブルズって、あの赤いユニフォームのチームな」


 流川がこくりと頷くと、その少年は嬉しそうに笑った。


「ピッペンは、1番から5番までなんでもこなせるオールラウンドプレイヤーなんだぜ。オレもいつかそうなりてえ。どのポジションをやれって言われても出来るような選手にさ」
「……その靴、たかい?」
「値段がってコトか?」
少年はう~んと考える仕草をして、空を見上げた。
「まあ安くはねえと思うけど、クリスマスプレゼントにお願いしたらもしかしたらいけるかもな?」
「誕生日も近いから、プレゼントこれひとつで良いから欲しいって言う」
「へえ、お前、冬生まれなんだ?」
確かにお前、冬男っぽいな。なんて少年が軽口を叩く。


「でもさ、お前が履くならエアマエストロじゃなくてジョーダンがいいんじゃね?」
「じょーだん……?」
「エア・ジョーダン。同じブルズのマイケルジョーダンが履いてるバッシュ。なんか、マエストロよりジョーダンのほうが似合いそう、お前」
「おれが……?」
「お前、オールラウンダーっていうよりゴリゴリのオフェンスマシーンになるほうが向いてる気がするし。将来、片手ダンクとかインサイド切り込んだりとか。そういうプレイヤーになりそうだなって思うし」


 そこで一度言葉を切って、その少年はふうっと白い息を吐いた。


「それに、ジョーダンはピッペンの相棒なんだぜ?オレとお前、同じタイプのプレイヤー目指しててもつまんねえだろ?どうせなら、オレの相棒を張れるくらいになれよってこと!」
「……エア、ジョーダン…………わかった、お母さんにおねがいしてみる」
「おう!」
そうやって笑った彼の横顔は、夕日に照らされて汗がキラキラときらめいていた。
「また会ったらワンオンやろうぜ」
「……うす」

□□□

「そういえばさ、なんでお前ずっとジョーダンばっか履いてんの?」
「……バッシュのこと?」
「そ。今更だけどよ、なんか理由でもあんのかな~って」


 自主練後に自転車二人乗りでやってきた鯛焼き屋のベンチの前。三井の言葉に、流川ははて……と遠い記憶を思い返した。


 ぼんやりと、蜃気楼のように揺れる年上の少年の姿。顔までは分からない。でも、すごく綺麗なシュートをするなとは思ったような気がする。


「小学生の頃、名前も知らねえヤツとワンオンやって、そいつがお前はエアジョーダンが似合うって言われた。気が……する」
「へえ?お前が知らねえヤツとゲームするとか意外」
「そいつ以外とはたぶんやってない。あれが最初で最後」


 あの頃の自分がどう頑張っても勝てなかった相手。あれから一度も会うことは無かったけれど。あの時に感じた強者へのワクワク感は、今の自分のバスケットを作り上げる原風景になっているような気もする。


「そんなに忘れられねえヤツなんだ。カエデくんの忘れられない男か……なんか嫉妬すんだけどぉ?」
「……そんなニヤニヤした顔で言われても信ぴょう性ない」
「バレたか」


 ははは、と快活に笑う三井の口の端にあんこが付いたままなのを、敢えて言わないでおいてやろうと流川は心に誓った。


「でもさ、確かにお前、ジョーダン似合うぜ。何て言うのかな……お前はゴリゴリのオフェンスマシーンだし、片手ダンクとかインサイド切り込んだりとか。そういうプレー似合うじゃん」
「…………?」
「ん、どした?」


 今、その言葉にうっすらと何かを思い出せそうな気がしたのに、また引いていく潮の満ち引きのようにぼんやりと記憶の底に沈んでしまった。


「なんか思い出せそうだった」
「その男の?」
「そう。……でも、確か『スタミナつけろ』っていうのは言われた気がする」
「へ~、そんな偉そうなこと言うなんて、そいつすげえスタミナあったんだろうな?一試合走り回れるみたいな?」
「……たぶん?」


 あの日と同じ、この冬の季節。
 頬をかすめていく冷たい風に小さく目を細めながら、流川は湯気を上げている鯛焼きの残りにかぶりついた。







end

中2三井の履いていたバッシュ、ナイキのエアマエストロ(スコッティー・ピッペン)の『相棒』がマイケル・ジョーダンだったのは……るみつ者への『暗喩』ですか??????と皆思っただろうものをかきました