暴力的なまでの高揚感、というものがある。
流川は、肌がびりびりと痺れるこの試合前の空気が好きだ。
満員御礼のアリーナは、ひとつの大きな生き物のよう。日本を応援するため全国から駆けつけてくれたブースターのざわめきと期待感。それが混ざり合いながら、独特の熱を帯びていく。その熱は、裏のロッカールームにまで伝わっていた。
ぐぐっと腕を天井に伸ばしてストレッチをしたあと、流川はゆっくりと瞳を閉じた。
流川楓、34歳。おそらく、自分の中で最後のワールドカップだ。
今回の大会は、中一日のスケジュールとはいえ、世界のトップクラスとの試合の連戦は、確実に流川の体力を奪っていた。連戦の中で、癒やしきれない筋肉の疲労感も増している。1日寝たらすぐに体力が回復していた20代と違い、30代からは目に見えて疲労が身体にずしり、とのしかかってくるようになった。チームの皆に言うほどのことでもないので黙っているが、足首も若干の違和感がある。
でも、流川はそんな素振りは一切見せたくなかった。いつのまにかチームの最年長となった自分。その自分が凜と、堂々とコートに立っていることで、チームメイトの士気が上がることを知っているからだ。
脳裏に前大会の光景が浮かぶ。アリーナが爆発するような熱狂と応援の中、最後までコートに立ち続けた14番の背中。あの広島で見た美しいスリーポイントと一分も変わらない滑らかなボールの軌道。同じ日の丸を背負った前回の大会。十五の頃からずっとずっと、あの人から教えて貰ったことは数え切れないほど沢山ある。
「流川」
何度も聞き慣れた声。その声にゆっくりと瞼を開くと、自分の目の前でしゃがんでいる男とばちり、と目が合った。同じ暁――あかつき――色のポロシャツを身に纏った男。幅広の二重と、色素が薄い瞳が心配そうにこちらの表情を覗き込んでいる。
「最後のストレッチしとくか」
「ウス」
自分が頷くと、ほっとしたような顔をして手を差し伸べてくれる。その手を掴むと、存外力強く引っ張り上げられた。自分の足首の不調を、ヘッドコーチとこの人だけが知っている。
「ストレッチ終わったら、テーピングでぐるぐる巻きにしてやるからな」
「……オテヤワラカニ、オネガイシマス」
「はは、日本語へたくそ」
冗談を言い合いながら別室に移動すると、ストレッチマットに仰向けに寝かされる。慣れた手つきで左の足を持ち上げられて、ぐぐっと体重を掛けられる。右足も同じく伸ばした後、股関節を念入りにほぐす。膝の状態を確認したのちに、その手は流川の足首にそうっと触れた。俯いている三井の表情は、よく見えない。
「……痛いか?」
「痛み止め飲んだし、今はまし」
「……そっか」
いまだ俯きながらテーピングを取り出す手にそっと触れる。ハッと顔を上げた三井の表情は、心配の色を隠せていなかった。ばつの悪そうな顔で顔をそらされる。あんたにそんな心配をさせたいわけじゃない。そんな顔をさせたいわけじゃない。それでも、どうしても流川はこの試合に懸けたい想いがある。
「センパイ」
「……ん?」
「すげー心配させてんのは分かってる。オレだって、アンタが無理して試合出ようとしてたら、絶対にやめさせてーって思うし、出るなって思う」
「……うん」
「でも……あと一試合勝てば、オリンピックに行ける」
「ん……」
二人が同じ選手としては、叶えられなかった夢がすぐそこにある。日本バスケットボール界の歴史が変わる瞬間が、目の前に迫っている。
「本当はコートに立ってるセンパイと一緒に手に入れたかった。それは叶わなかったけど、でも、こうやって同じチームで一緒に戦えてる今、そのラストチャンスが目の前にある。そのチャンスを、オレは絶対に掴みたい」
「……うん」
「これはオレのエゴかもしれねーけど、今の気持ち……ちゃんと伝えたい」
流川は小さく深呼吸をした。遠くから聞こえてくるブースターの歓声。おそらく、スターティングメンバーの紹介動画でも流れているのだろうか。息をふうっと吐いて、目の前でテーピングを持ったまま相対している三井の目を見つめた。
「アンタを、パリ五輪に絶対連れて行く」
「……っ…る、かわ……」
目の前の大きな瞳がまん丸に開かれて、じわりと水気を帯びていく。その頬をやわくきゅうっと掴んで、流川は口元を少しだけ緩めた。
「泣くのはお預け。……今日の試合、勝ったときに泣いて」
「っ……ん、っ…………う、ん……」
別室のドアと、部屋の中に誰も居ない――勿論ロッカールームの密着カメラも無いことを確認して――流川は三井の唇にかすめるような口付けを落とした。
「っ!? ば、かやろう!お前っ!密着カメラ!!」
「無いことカクニンした」
「ホントかよ!?」
「今日ぜってー勝てるように、おまじない」
いけしゃあしゃあとそう返すと、三井が何かを思いついたような顔をしてにやりと笑った。
「……じゃあ、オレからもおまじない」
テーピングが終わった足首を軽く持ち上げられる。前大会、同じコートで美しいスリーを放った指先が、自分の足首を撫で、そこに顔を近づけられる。小さなリップ音と共に、顔が離れていく。
「試合中、痛くなんねーようにおまじないかけといた」
上目遣いで得意げに目を細めてくる。恋人にエールを送られる最高のシチュエーションには違いないのだが、いかんせん厚みのあるテーピングのせいで感触がまったく伝わってこない。
「……本当にキスされたのか全然わかんねー、テーピング巻きすぎ」
「はは、さっき言っただろ?ぐるぐるに巻いてやるって」
有言実行だ、なんて言いながらイタズラが成功した子供のように笑う。そんな顔も悔しいほど可愛い。もう一度、触れさせるだけの軽いキスを仕掛けたあと、流川はマットの上から立ち上がった。
「今日の試合、勝ったらテーピングない足にキスして」
「はは、いいぜ」
「ホテルに帰ってから絶対。約束」
「分かってるって」
「寝てたらホテルの電話使ってでも起こす」
「それオレが今日お前にモーニングコールした方法じゃねーか」
他愛ない軽口を交わしながら、関係者通路を進んでいく。まばゆいほどのスポットライトが差し込んでくる入口で、もう一度深呼吸をした。
絶対に勝つ。それだけ。
「いってきます」
「ああ、行ってこい!」
バン、と力強く叩かれた背中にプリントされている背番号は11。大歓声の中、堂々とした佇まいでファンの声に応えて、いつもと変わらないクールな表情。
青く静かに燃え上がる勝利への情熱を胸に、熟年期の一人のアスリートは最後の大勝負に挑む。
終?
――某スポーツ紙より抜粋
日本最南端の地、沖縄。世界で一番、今ここが熱い場所になっているんじゃないだろうか。
大歓声と数千人の熱狂の渦の中心。汗みずくになった黒髪をぐしゃぐしゃとかきまぜるように撫で回し、誰もが誇る日本のエースに抱きつくスタッフの姿がそこにあった。前回大会まで流川楓と同じコートに立っていた男。誰もが忘れることの出来ない、背番号14番。そして今は、ストレングスコーチとして選手を影から支える立場となった男――三井寿。
二人がコートの真ん中で抱き合う姿は、そこに駆けつけたブースター達、そして日本バスケットボールを愛するすべての人間が祝福しているようにえた。
選手同士では為しえなかった夢。それでも同じチームの一員として、夢の切符をつかみ取った。その今までの苦労と努力のすべてが、今ここに実を成した。無言でただただ、抱きしめ合う二人に、どこからか拍手が沸き起こる。それは大きな波のように、会場全体を包み込んでいった。
のちのインタビューで、三井寿はこう語った。
――試合前、流川に言われたんです。パリ五輪に連れてくって。本当はオレ、そこでもう泣きそうになってたんですけど、アイツが「泣くのは今日の試合勝ってから」って言われて。だから思いっきり泣いてあいつのユニフォームに鼻水擦り付けてやりました 笑
高校時代から今。彼等の絆がチームを動かし、日本のバスケットボール界の歴史を変えた。
今月にはアジア大会。そして、来年の夏。パリで行われるオリンピック。流川楓の青い炎のような静かな勝利への情熱と、三井寿の赤く燃え上がるような諦めない心。二人が織りなす日本バスケットボールの化学反応から、まだまだ目が離せない。
パリ五輪の切符を手に入れる直前に書いた小説で、本当にパリ五輪行きを決定してくれた感動と感情のままに雑誌記者風の記事を付け加えていました……恥ずかしいのでちょっと小さい文字にしてみた ここまで見つけてくれた方、ありがとうございました。
本当の終