ああおおぞらよ そらたかく
ゆめおうわこうど ひかりあれ
第一音楽室の窓から中庭の広葉樹が、軒並み紅い葉を散らしているのが見える。
自分の名前にも付けられた楓の木がどれなのか、流川には分からない。学内にあるのかすら興味がない。そんなことよりも早くバスケがしたい。こんなひな壇に並ばされて合唱の練習をするよりも、だ。「テノールの男子パートちょっとずれてる」「もっかい最初から行くよ~!」。もう聴き飽きてきているピアノ伴奏が流れ、流川は小さくため息をついた。
湘北高校はごく普通の神奈川県立の公立高校である。ゆえに、たとえインターハイに出場した部活動であっても学業を怠ることは許されない。勿論、それは学校行事に於いても適用される。
来週末に行われる学内の合唱コンクールに向けて、放課後に音楽室を宛てがわれた日は問答無用で合唱練習に駆り出される。それは一年十組も例外ではなかった。むしろ、他のクラスより団結力がつよい分、クラスの雰囲気も盛り上がっている。目指せ優勝、一致団結、青春上等。そんなクラスの雰囲気をものともせず「部活に行く」と言いかけた口は、石井の必死の形相によって止められてしまった。「流石に音楽室での練習は出ておかないと気まずいよ、流川……」。流川自身、クラスの中で気まずくなろうがどうでもいい(ほぼ自分は教室で寝ているだけなので)のだが、必死に止められては仕方がない。
そんなわけで、渋々ながら貴重な放課後を、音楽室という流川楓からすると縁遠い部屋でひたすら歌わされるという苦行を強いられているのであった。
「……早く部活行きてー……」
「流川、女子に聞こえちゃうよ……」
別に女子に聞かれたからといって特に困ることがあるのだろうか、とは思ったものの、石井の言う通り口を閉じる。フー、と鼻から息を吐き出していると、石井が小さな声で囁いてくる。
「宮城先輩が言ってたんだけど、今日は三井先輩のクラスも音楽室練習の日らしいよ。レギュラーの二人が居ないから、二人が来てからゲーム形式の練習はするって言ってた」
「ナルホド」
自分だけじゃないという気持ちと、ゲーム形式の練習に遅れる事はないという新情報で、少し溜飲が下がる。それと同時に、さっきまでなにも気にならなかった隣からの歌声が気になってくる。
ああおおぞらよ そらたかく
ゆめおうわこうど ひかりあれ
「やっぱり三年生は俺たちより迫力ある歌声だよね。低音がやっぱり効いてるのかな」
石井の言葉に適当に頷きながら、この歌声のどこかに、あの先輩の声が混ざっているのか、なんてぼんやりと考える。
やさぐれて体育館に殴り込んできた男が、自分と同じくひな壇に立たされて楽譜を持って歌っている。大人しく張り切り系の女子の言う事を聞いて、自分みたいに早く部活に行きたい気持ちを抑えながら練習しているのだろうか。
「ん?流川……どうしたの?なんか変な顔してるけど……」
「……別に」
「あ、それと……残念なお知らせがあるんだけど……」
「何」
「流川、今日日直でしょ?たぶん……ここの後片付けもあると思う……」
「分かった」
「だよね絶対嫌がると思って……え?」
「片付け、してから部活行く」
「……ええ?!」
空から槍が降ってきたような顔をする石井からふい、っと目を逸らし、流川は取り繕うように楽譜の黒いおたまじゃくしのような記号を目で追ったのだった。
第一音楽室の練習が終わったあと、第二音楽室の三井達のクラスも練習が終わったらしく、廊下が騒がしくなる。片付けをしながらちらっと廊下側を確認していたが、普通の生徒より頭ひとつ分は大きいローアンバーの髪色をした後ろ姿は見えない。
(やっぱり、センパイも片付けしてる。タブン)
朝練の時、三井が部室で「うわ、今日オレ日直じゃん……だるすぎるぜ……」とぼやいていたのを流川は覚えていた。一年生と三年生。クラスも学年も違う日直同士が何か一緒にやるとは思えなかったが、なんとなく心の中で心に留めていたのだ。まさかお互いに放課後に合唱コンクールの練習が入っているとは思わなかった。
第一音楽室の鍵を閉めて、第二音楽室の入り口に近づく。少しだけ開いている隙間から覗くと、よく知った後ろ姿が黒板消しを持って、濃緑の板に向かい腕を上げ下げしていた。普通の教室と違い五線譜がもともと書かれている黒板。音符がかかれたそれを少しずつ消している様子を見るに、やはり流川と同じように日直だからという理由で片付けを任されたらしい。
白いチョークの粉がふわりと舞って鼻に入ったらしく、何かを堪えるよう背中を丸めている。流川が(あ……)と思った一瞬の空白が空いて、ブェェッックション!と堪えきれず肩をいからせながら飛沫と黒板消しの白い粉を室内にまき散らしている姿を見て、思わず喉の奥で「ン、グ……」と押し殺せなかった感情が漏れてしまう。……なんでそんなにコントみたいなお約束通りの行動をとれるんだろう?誰かがそばにいるならまだしも、一人なのに。いや、そもそも誰かに笑ってもらおうとして面白い行動をする(脳内の石井が『失礼だよ、流川』と窘めるが気にしない)ような先輩ではないのだが。
音響に配慮して作られている音楽室に流川の押し殺せなかった声は思ったより大きく響いてしまい、鼻をすすりながら振り向いた二重の大きな瞳が丸められる。
「流川……?」
「……うす」
「お前も合唱練習だったのか?」
三井の問いかけに、流川は無言で頷く。
「オレも日直だったから」
「あー、災難だよな。ほんとツイてなかったぜ」
「ゲーム形式の練習はオレ達が来てからやるって石井から聞いた」
第一音楽室と殆ど同じレイアウトをしている室内なのに、なぜかさっき自分が居た部屋よりも居心地がいいような気がする。
流川が黒板に近づくと、そばに置いてあるピアノの蓋がまだ開いていることに気づく。白と黒の鍵盤、その上には楽譜が置かれたままになっている。風で飛ばされないよう裏に厚紙を貼り付けられた伴奏用のピアノ楽譜。クラスの誰かが忘れていったのだろうなと声をかけようとしたところで、一ページ目に見慣れた字で『三井』と殴り書きされていることに気づいて、流川は小さく瞠目した。
「先輩、これ……」
「ん?」
黒板を消し終えたらしい三井が手をはたきながら近づいてくる。流川が指し示した楽譜を見て、にやりと笑った。
「ああ、オレのクラスはこの三井寿サマがピアノ伴奏だからな!スゲーだろ。文武両道ってのはこーゆーことよ」
「……文武両道だったら赤点取ってねーと思う」
「おいコラ。一年から赤点取ってるオメーに言われたくねえんだよ」
フン、と鼻を鳴らして、三井がピアノの椅子に座る。両手を白黒の鍵盤の上にのせて、滑らかに手を動かす。目の前の楽譜ではなく、それは流川でも聞いたことがある有名なクラシックだった。
「どーだ?スゲーだろ……バスケ部の奴等には内緒にしてんだよ。本番でオレがピアノ弾いてるところ見てビックリさせてやろうと思っててさ。だから流川、ほかの奴にはヒミツな」
「……うす。でも何でピアノなんて弾けるんすか」
「幼稚園くらいからずっとピアノ教室通わされててよ。ピアノ自体嫌いじゃなかったんだけど、小学校になってだんだん練習が面倒になって、ミニバスで突き指したら練習休めんじゃねえかと思ったりしたけど、まあオレにバスケの才能がありすぎたから、突き指なんてやろうと思ってもできなかったんだよな」
「へえ……」
三井の家庭環境がどちらかといえば裕福な方だとは思っていたけれど、まさかピアノを習わされるほどのものだったとはさすがに予想していなかった。流川が素直に聞いているのを快く思ったのか、三井の昔話は続く。
「結局中三まで続けることになったんだけど、高校はインハイに向けてバスケ一色でやりてえって母親に直談判してさ、ようやくレッスンに通うことは無くなったけど、まあ十年くらいやってっから、体が覚えてるっていうやつだ」
「先輩、こういう合唱コンクールとか面倒くさがるタイプかと思った」
「まあな~。去年までは……まあ、ろくに学校にも来てなかったし行事も、さ。……泣いても笑っても人生の中で合唱コンクールなんて最後だからまあ、頼まれたらやってやるかってのと、ピアノ伴奏引き受けたら内申点もちょっとは上がんだろ?オレは推薦合格の為なら手段は選ばねえ男だからよ」
後者は建前で、本音は前者の方なのだろうと思いながら、流川は三井の横に近づいた。
「先輩、まだ現役合格諦めてないの」
「うっせー!冬の選抜が終わってからがオレの正念場なんだよ!!残り物には福があるってこと、大学バスケの奴等に思い知らせてやんだからよ」
「大学決まらなかったらもう一回三年生やって、またインハイ出たらいい」
「ぜってーヤダね!宮城とタメとか、アイツ絶対末代まで笑うぜ……そんなのオレが耐えられねえ」
同学年云々ではなく、もう一度自分(達)とインハイに行けることの方に反応してほしかったのだが、それはまあ仕方がない。
話題が途切れ、音楽室に静寂が戻る。こういう時に自分は口下手なのだと思い知らされるのだが、どうしようもない。流川が所在なさげに再び楽譜に目をやると、三井が椅子に座りなおして、かしこまった咳ばらいをした。
「しゃあねーな……まあバレちまったし、流川にはトクベツに本邦初公開でオレのピアノ伴奏を聞かせてやろう」
すうと息を吸い込み、三井がペタルを踏み込みながら指先で鍵盤を押す。美しい和音が響いて、さっきの練習の時に隣から聞こえてきた曲が始まる。三井の美しく切りそろえられた爪が、なめらかに白と黒の鍵盤を舞うかのように動く。このひとはピアノを弾くときも綺麗なのか、と流川は思った。
ああおおぞらよ そらたかく
ゆめおうわこうど ひかりあれ
はばたいてゆけ どこまでも
とおくはなれても つながっているから
三井が伴奏をしながら小さく口ずさむ。その歌詞もさっき隣から聞こえてきたものだった。
「……『ゆめおうわこうど』って何」
「ん?ああ、『わこうど』って若いやつって事だぜ。夢を追いかける若者に光あれってカンジか」
「ふうん……」
「そういえばコレ、なんかお前のこと歌ってるみてえだよな」
「オレの事?」
「青空の下、夢を追いかける若者に光あれ、どこまでも羽ばたいて頂点目指せ……てことだろ。アメリカにバスケ留学するお前みたいだなと思ってよ」
手遊びのようにサビの部分をピアノで再度弾いて、三井は笑う。カッケーなお前、お前の人生合唱曲になるんじゃね?なんて茶化しながら鍵盤にあて布を敷き、窓から差し込む斜陽で光る黒いグランドピアノの蓋を閉める。
「……『とおくはなれても……』って所は?」
サビの最後のフレーズを小さく呟く。
勿論アメリカにはいきたい。本場のバスケットボールにふれて自分がどこまで成長できるか挑戦したい。その気持ちにブレはない。それでも、あの時の自分には無かった感情が、どこか快く自分を送り出すだけの三井の言葉に、胸がちりっとする。
「ん?お前、今なんか言ったか?」
「……べつに、なんでもない」
「おし、じゃあそろそろ部活行くか~お前も準備してこいよ。どうせお前も職員室に日誌提出してから部室だろ?一緒に行こうぜ」
「……」
流川はこくり、と頷く。
自分は何をして欲しいんだろう。この年上の男に、何を期待しているんだろう。その答えは流川自身も自分の中でまだ見つけられていない。ジグソーパズルの最後の1ピースを探しているような、どこか収まりの悪い気持ちのまま、流川は立ち上がった。
「ほら、早く行かねーとゲーム形式の練習も始まっちまうぞ」
「……うす」
自分の中で簡単には見つからない最後の1ピースを探しながら、流川は三井の背中を追いかけた。
嗚呼青空よ 空高く
夢追う若人 光あれ
羽ばたいて行け どこまでも
遠く離れても 繋がっているから
END