午後からの練習が終わった夕方。オレンジ色の夕陽が差し込む中、ロッカールームはガヤガヤと心地よい喧噪に包まれている。
さっきのクイックはこうしたほうがよかった。アリウープパスのタイミング。さっきのフローターにはやられた。
聞こえてくるのは、練習の最後に執り行われたピックアップゲームのディスカッション。練習が終わってもなお、バスケの事しか考えてない彼等は、図体は大きくなっても中身はジュニアスクール時代のバスケ少年のままだ。
勿論、自分――デイヴィット・フォスターもその一人だといえる。
物心ついたときから家の庭にはバスケットコートがあり、TVで見るNBAのスーパープレーに心を躍らせた。いつか自分も、こんなスポットライトに照らされた中で最高のバスケットがしたい。
その思いで必死に研鑽を積み、勉強にも励んだ。NCAAの一部リーグからの誘いはスカラシップ付き。四年間を有意義に過ごし、ドラフトでNBAのこのチームに引っ張られて今がある。他人から羨ましがられる事も多々あるが、自分でも割と順風満帆にここまでたどり着いたと思う。
そんな自分と対照的なのが、横で静かに着替えているこの日本人だ。
カエデ・ルカワ。プレップスクールからNCAAの大学に進む王道スタイルを取るかと思いきや一転、ヨーロッパのバスケットボールリーグに四年間を捧げ、サマーリーグを経て鳴り物入りでブルガリアのリーグから今シーズンよりこのチームに移籍してきた日本人。
その一人で新しい道を切り込む爆発的な攻撃スタイルは、幼い頃にハリウッド映画で見た『サムライ』そのもの。
真っ黒で艶やかな真っ直ぐの髪、切れ長の黒い瞳はオリエンタルな空気を感じさせ、より一層『サムライ』感が強い。そんな彼もチームメイトになってみれば、コートの外ではほぼ寝ているか何かを食べているかという、冬眠前のグリズリーのようだった。
気づけば野良猫を構おうとして引っかかれており、気づけばスマートフォンを無くし、気づけば遠征帯同の手荷物検査で係員に問い詰められている。
そのたびにデイヴィットは一緒にスマホをくまなく探し、手荷物検査の係員にカエデの拙い英語に代わり必死に説明してやった。いつのまにかチームメイトから『カエデ係』と揶揄られるようになったが、元来の世話焼きの性分はどうしようもない。
そんなカエデは今日も、のっそりと着替えのTシャツに頭を通している。ピロン、と何やらスマートフォンに通知が来たらしく(今日はスマホ大捜索をしなくてよさそうだと勝手にホッとしたことは秘密だ)右手でスマホを手に取った。
ジャイロ機能で液晶にパッと光が灯りその通知を見た瞬間、カエデの顔が不穏そうに歪められた。
「カエデ?どうかしたのか?」
「デイヴィ……」
愛称で呼ばれ、カエデの顔がゆっくりとコチラを向く。金色癖毛の自分と違い、カエデの髪は汗をかいてもまっすぐで羨ましい。そんなことを内心思っていた矢先、彼からとんでもない一言が飛び出した。
「……ヒサシが、身動きとれなくなってるらしい」
「……なんだって?」
whats?
何だって?もう一回言ってくれないか?そう畳みかけると、カエデは再びスマホを眺めた。
「助けてくれって、今……通知が来た」
「えっ……大変じゃないか!!」
自分の大声で、他のチームメイトも何だ何だと自分達の周りに寄ってくる。ヘイ、カエデ。どうしたんだ?その問いかけに、先ほどと同じ言葉を呟くと、彼等も顔色を変えた。
「ヒサシ……って、確かカエデがずっと言ってる『センパイ』のことだよな!?」
こくん、と頷くカエデ。『センパイ』はカエデの大事な人だ。チームの打ち上げでほろ酔いになったカエデから、『センパイ』のスリーポイントの美しさの話を聞いたことの無い選手はおそらく居ない。
他の選手達も、顔を見合わせて心配そうにしている。カエデ、大丈夫かい?ヒサシって、確かカエデのシュガーじゃなかったかい?確かそうだよ、カエデ、911に電話するか?緊急事態にわあわあと騒ぐ選手の真ん中で、カエデがふるふる、と首を横に振る。
「……とりあえず、すぐ帰る」
ああそうだ。カエデのシュガーは日本にいるんだった。911に連絡しても仕方が無いのだ。そうなると、自分が出来ることは、一刻も早くカエデを日本に返してやること。
カエデはこのチームの必要な戦力であることは間違いないけれど、明日からの試合なんて二の次だ。男の子は仕事よりも何よりも、愛する人を大切に大事に守らなきゃいけないって、小さいときからママに何度だって教えられてきた。コーチに何を言われたって、自分はカエデを日本にいるシュガーの側に送り出さないといけない。
ここからの最寄りの空港を思い浮かべる。今からすぐにカエデの家に帰っていったん荷造りをして空港まで送り届けて……。OK、最終フライトが空いていたら最短で飛行機に乗せられる時間はありそうだ。
事は一刻を争う事態だ。急いでバックパックに荷物を詰め込み、車のキーを取り出した。カエデはまだ国際免許を持ってないから車の運転ができないのだ。
「カエデ、送ってやるからとりあえず家まで帰るぞ!」
「デイヴィ……」
小さくthanksと聞こえる。礼なんていいから、とにかく早く!
クラブハウスを飛び出し、パーキングまで全速力で走る。遠隔操作で車のロックを解除し、運転席に飛び乗った。
「行くぞ!」
「うん」
助手席でカエデが頷いたのを確認して、アクセルをぐんと踏んだ。納車したてのBMWは景気の良い音を立ててどんどん加速する。ハンドルを切りながら、助手席で心配そうな顔をしているカエデに顎をしゃくった。
「カエデ、今のうちに今日の最短で飛べる日本着のフライトのリザーブしといたほうがいいぞ」
「…………」
カエデの返事は無い。
「カエデ、なあカエデ!心配なのは分かるがとりあえず今日飛べるフライトの席が取れなかったらどうしようもないだろ!」
「日本には行かなくて良い。家に居るから」
「家!?カエデの家にヒサシがいるのか?」
「うん」
初耳だった。確かヒサシ……『センパイ』は日本のリーグでバスケット選手をしているはずだと聞いていたのに。
日本のリーグのオフシーズンがいつなのか分からないけれど、プロアスリートとしてそんなに長い期間、アメリカに居ることは可能なんだろうか。というか、アメリカにいるならまず911に連絡したほうがいいんじゃないか?そんな疑問が次々と浮かぶ。……まあ、いい。とりあえずカエデが家に居るというのなら、一秒でも早く家に送ってやるのが、今の自分――デイヴィット・フォスターのできる最善だ。
信号を右に曲がり、左手に見えてきた赤い屋根の一軒家。カエデの自宅だ。家の前で急ブレーキを踏んで停車する。飛ぶように車から降り、カエデもそれに倣って助手席から出てきた。
「カエデ!鍵!」
「……いま、開ける」
カエデが鍵穴にキーを差し込んで右へ回しているのを見つめながら、軽く息の上がっている身体をなだめるように深呼吸をした。バクバクと心臓の音がうるさい。
身動きがとれなくなっているって、一体どういうことだ。何かの間に挟まった?それとも、強盗が入って監禁されているっていうことか?
いつのまにか、自分の口の中がカラカラに乾いている。ごくん、と生唾を呑み込んだ。強盗だった場合、相手は必ず凶器を所持しているはずだ。そんな相手にどう立ち向かう?自分達はタッパはあるが、所詮バスケットボール選手にすぎない。格闘技の経験は無いし、友達と殴り合いだってしたことはない。そんな自分が強盗を倒せるんだろうか……。
様々な最悪の事態がデイヴィットの脳裏をよぎる。そんな心の内を知るよしも無く、カエデが解錠した玄関の扉をのうのうと開けた。
「お、おいカエデ!誰かいるかもしれないのにそんな堂々と入って良いのか!?」
「?家ン中、誰もいねーけど……」
カエデが不思議そうな顔をする。だって!強盗がいたらどうするんだ!?そんな言葉が喉まで出かかって、止まった。……何かがおかしい。自分とカエデの中で、会話のキャッチボールがしっくりこないのだ。
カエデは今、「誰も居ない」といった。それなのに、カエデは「ヒサシが部屋で身動きがとれなくなっている」と困ったような顔をしたのだ。……おかしい。何かのボタンを掛け違えたような気持ち悪さ。首を傾げながら、カエデの後ろをついていく。
カエデがリビングのドアを開ける。暗闇の中で、ビッブー……という不機嫌そうな電子音が聞こえた。え、何。
電気を付けると、そこには、床に敷いた長毛のラグの段差の所で動かなくなっている円盤状の機械がポツン……と鎮座していた。カエデはその円盤状の機械を両手で大事そうに抱え、充電器のある場所で下ろした。軽快なポロロン、という音で充電を開始する円盤状の機械……いや、クリーナーロボット。
「……Oh my god…………」
放心したような自分の声が、ほぼ私物のないカエデのリビングに響き渡った。
「カエデ、その……あの……ヒサシが身動きとれないっていうのは……」
「うん、コレ。センパイにヒサシって名前付けろって言われたから」
「あ、そう…………」
安堵したと同時に、とてつもない疲労感がデイヴィットを襲う。脱力したまま、思わずへなへなと近くのソファに座り込んだ。
確かにおかしかった。カエデがシュガーの事を呼ぶとき、いつだって『センパイ』と呼んでいたはずだ。それなのに今日は『ヒサシ』としか呼ばなかった。でも、そんな所で気付けという方が酷では無いだろうか。緊急事態で、思わず二人だけの時に呼んでいる呼び方が出た……って可能性も有り得るじゃ無いか。
カエデに紛らわしいことを言うなと叱るのが先か、あんなに大騒ぎして出てきてしまったチームメイトを安心させるのが先か。デイヴィットが考えあぐねていると、カエデのスマートフォンが軽快な音を立てた。
「誰?」
「センパイから」
どうやらスカイプの着信音らしい。カエデが画面をスワイプすると、画面一杯に『センパイ』の顔がでかでかと映った。
日本は翌日の朝らしい。寝癖の付いた顔で「オハヨウ」なんて声が聞こえてくる。オハヨウ……は、確か日本の朝の挨拶のはずだ。それはそうと、恋人達のスカイプを覗き見していていいのだろうか。
一瞬、罪悪感はあったものの、さっきまでカエデに振り回されていたのだ。少しくらい聞き耳を立ててもいいだろう。ギブアンドテイクというやつだ。勝手にそう決めつけ、デイヴィットはこっそりと音声翻訳アプリを立ち上げた。
『今日は練習だったんだろ?』
「今終わったところ。さっき『ヒサシ』がラグの毛に絡まって止まってた」
『ちゃんとすぐに助けてやったか?」
「すぐに駆け付けて助けた。充電器のトコロまでだっこして運んだ」
『よしよし!オレだと思って、ちゃんと大事にしてくれてんだな』
「センパイから貰ったのは、全部大事にしてる」
満足そうに頷いている『センパイ』が、カエデの肩越しに見えた。
『ちゃんとオレの名前を付けろっていった甲斐があったな!』
「……どういうコト?」
『そりゃよお、ルンバにオレの名前をつけといたら、オレの事毎日考えるし忘れねえだろ?』
「そんなことしなくても、毎日センパイのこと考えてるし、忘れたことなんてねー」
「J−POPの歌詞みてぇなコト言ってるお前、なんか面白いな」
ケラケラと『センパイ』が笑っている。ジェイポップ?というジャンルは分からないけど、おそらく歌のことなんだろう。確かにさっきのカエデの言葉は熱烈すぎて、思わず翻訳アプリの画面を見ていたこっちまで照れてしまった。
『やっぱり日本製の家電は最高だしな!優しい優しいオレがプレゼントしたルンバ、大切に使えよ』
「ウス」
……ねえ『センパイ』、ルンバはアイロボット社の製品で、メイドインアメリカなんだ――。
だがしかし、遠距離恋愛中の恋人達の会話に水を差すことなんて、デイヴィットに出来るわけもなく。自分の心の声に反応したかのように、充電中のルンバの『ヒサシ』が軽やかにピロン、と音を立てたのだった。
end