センター試験二日目の早朝。
晴天に恵まれた空気はキンキンに冷え、鼻から全身をすっきりとリフレッシュさせてくれるように思える。 昨日と今日。あと一日、今日も頑張るだけ……。緊張で固くなる自身の身体を鼓舞するようゆっくり深呼吸したあと、玄関先に丸まった大きな物体を視界の端で捉えた瞬間、三井は本能的に身構えた。
え、何、こんな街中にクマ出没……?
三井の脳裏に、国体時の何気ない会話が甦ってきた。「最近じゃあ山から里に下りてくるクマが増えてるんだ」「早朝や夜にランニングするときはクマ避けの鈴か大声を上げて走らないといけないピョン」「……深津の言うことは八割冗談だから気にしなくて良いぞ」「ピョン」そんな山王工業の同い年(国体の数日ですぐ仲良くなった)の話に、さすが秋田だ……と感心しながら記憶の中にあったそれ。
それが今、神奈川県の住宅密集地――三井家の目の前で起こっている。
え、どうしよう。こんな所にクマが居たら家から出れないじゃないか。せっかく勉強してきたのに数学と生物のテストを受けれないまま人生終わっちまうのか。推薦も面接と共通テストの点数を加味して合否が決まるっていうのに。
混乱した三井の思考回路は、まず何よりも先に『試験会場に行けない』という試算結果を叩き出した。浪人人生の始まりか……?やっぱ現役合格したいぜ……。そんなことを考えたのち、三井はハッとした。いや、それもそうだけど、こんなところにクマがいたら大学合格どころか、そもそもここでオレ、人生が終わる可能性すら――!?
数秒のうちに様々な思考が駆け巡った三井の頭から数Bのベクトルの公式が抜け落ちそうになった瞬間、その大きな物体がのそっ……と立ち上がった。
「え………るかわ……?」
「……ス」
鎌倉市の住宅地に出没したクマの正体は、二歳下の後輩だった。
無造作な黒髪が冬風にそよいで揺れる。夏よりも少し長くなった前髪を鬱陶しそうにしながら、こちらをじっと見つめている。
「センパイ、今日……試験の日だって言ってたから」
「え、でもお前……今日までU18の国際親善試合でヨーロッパじゃなかったっけ……」
初詣の日。誕生日も兼ねて一緒に近くの神社にお参りに行ったときに言っていたはずだ。少し申し訳なさそうな顔をして「センパイに試験頑張ってって言えねー」と口を尖らせていた姿があまりにもかわいくて、ワシャワシャと髪の毛をまぜっかえした事も鮮明に覚えている。
違う場所にいるけど、流川は流川で、オレはオレで頑張ろうぜ。そう言って、お揃いの『勝ち守』を買ったことも。
「搭乗予定の便、今日の真夜中に着いて空港で仮眠して始発で帰ってきた。そのままセンパイを待ってた」
「待ってた、ってお前……寒くなかったか?風邪引いてねえか?なんでインターホン鳴らさなかったんだよ」
「センパイ、最後の勉強してると思ったから、邪魔したくねーと思った」
「でもよお……」
「大丈夫、ちゃんと着込んできた」
両手を広げる流川の上半身は、確かにびっくりするほどこんもりと膨らんでいる。1.5倍ほどに着膨れたこのシルエットを見て、自分はクマと間違えたらしい。ただ、クマと間違えたなんて言ったらきっとこの十六歳の青年は一発で拗ねるような気がするので、三井はこの事実を墓まで持って行くことに決めた。
「本当は昨日から試験だったし、昨日来たかった……」
流川が前髪をいじりながら俯く。
「仕方ねーだろい。ジュニア選抜に選ばれたのすげーし、お互いに頑張ろうなって初詣の時、言っただろ。それに、今日来てくれただけで嬉しいからさ。てか、まさか居るとは思わなかったし」
「うん」
着込んでいても顔面は真冬の寒さからは防げなかったらしい。少し赤くなった鼻頭と冷たくなった頬に持っていたカイロを当ててやると、流川は気持ちよさそうに目を細めた。
数秒そうしたのち、流川がはた、と何かを思い出したようにポケットをごそごそと漁り始めた。レシートらしきもの。何かを入れていたであろう袋。おそらく行動予定のしおりだったらしき紙。すべてのものがクシャクシャの状態でポケットから出てくる。
流川、お前ポケットに何いれてんだよ……。アメリカに行く前に、ポケットになんでも入れる癖を直してやらなければ。謎に一瞬、親目線になってしまう。
気を取り直し首を傾げながら見守っていると、目的のものがようやく見つかったらしい。三井の右の手のひらに、軽いものが置かれた。自分の鞄のなかに入っているものと同じ、赤い生地に金色の刺繍糸で『勝』とかかれたそれ。
「……お守り……?」
「ッス。これ、渡してーと思った。コレ試合前に持って、勝ちますようにって祈ったら試合に勝てた。ゴリヤク……?がたぶんすげーある。だから、コレ試験に持って行ったらぜってー勝てる」
「でも、オレも同じの持ってるけど……」
「知ってる」
流川が口元を少しだけ緩めた。
「たぶん、一つよりも二つのほうがゴリヤク……てのある。から、一日目は間に合わなかったけど……今日はオレの分の『勝ち』も、一緒に持ってって」
「るかわ……」
御利益が二倍になるなんて、そんな話は聞いたことはない。だけど、自分の事を思って、これを渡そうと思って、こんな寒い中に自分を待っていてくれたその気持ちに、心にカイロをあてられたようにじんわりと温かくなる。
ついつい、昨日から誰にも言えなかった本音がぽろり、とこぼれた。
「……昨日、一日目だったんだけどよ、英語が思ったより全然できなくて。つーか、緊張しすぎてあんまよく覚えてねえんだ。自信なんて全然ない。センターの点数だけで合否決まるわけじゃねーけど、やっぱり推薦貰うには、そこそこの点数はないと厳しいかもって思ったら、やっぱ不安で……」
センパイらしい所を見せたかったのに、二つ年下の後輩に、こんな弱音を漏らしていいのかと思う。みっともなくて、格好悪い。でも、一度漏らした本音は立て続けに自分の口からこぼれていった。流川は、じっとこちらを見て、静かに頷いてくれた。
「かっこわりいよな、こんな直前になって、こんな弱音言ってんの……」
「そんなことねー」
流川は首を横に振って、小さく息を吐いた。流川の口元から白い息がふわっとこぼれ、朝の空気に溶けていく。
「……緊張したり、不安になったりするのは、誰でもある。でも、それは良いことだと思う。緊張や不安を感じるってことは、その大舞台に挑む準備ができてるってコト。努力してないヤツは、緊張も不安もしねー。だから、センパイはそれだけ今まで頑張ってきたから。だから緊張もする。全然、恥ずかしいことじゃねー」
「流川……」
「……って、カリーが言ってた」
「…………え?カリーって……あのステフィン・カリー?」
「そう」
大真面目に頷く流川を見て、思わず声を上げて笑ってしまった。やたら格好良い事を言うじゃないかと思っていたら、どうやら受け売りだったらしい。しかも顔見知りの知人が言ってたみたいに言われたのも、三井のツボにハマってしまった。笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をすくって、大きく深呼吸する。
「はーあ、笑った笑った……ありがとな、流川」
「ん」
「スリーの神様の言葉、説得力ありすぎる。変な肩の力、すげー抜けたわ」
「それならよかった」
「オレなら大丈夫。今まで努力してきたこと……出し切ってくる」
「……センパイならできる」
流川が、手のひらに乗せてくれたお守りをもう一度自分の手に取り、目を閉じてお守りに唇を触れさせた。東に顔を出した太陽が、流川の長い睫毛を薄く透けさせてきらきらと光っている。神様のように美しいその光景に、一瞬目を奪われてしまう。目を再び開けた流川が、そのお守りを再びこちらに手渡してきた。
「オレの念、今もう一回込めといた」
「……ん、サンキュ」
手のひらに、二つ目のお守りをぎゅっと握りこむ。いまの自分には、初詣の時に祈った勉学の神様と、スリーの神様と、流川楓という強力な三人がタッグを組んで応援してくれている。
そう思うと、どんな問題が出てもきっと大丈夫だと思えた。
□□□
「行ってくる」
「うん」
最寄りのバス停で見送ってくれた流川に手を振り、バスに乗り込む。
静かに動き出した車窓から流川の姿が小さく見えなくなっていくまで見つめたあと、三井は空いている座席に腰を下ろした。
バックパックから直前確認の参考書を出して、暗記項目の確認をざっと終える。大丈夫、きっと自分はやれる。緊張も不安も、全部自分のモノにしてやるのだ。空港から自分を鼓舞するために現れた後輩の姿を思い出して、そう心で唱える。
流れていく車窓の風景をぼんやり眺めながら、三井はさっき手渡されたお守りもポケットから取り出した。念を込めてくれたそのお守りを、目の前でじっと見つめる。前後左右の近くに乗客が居ないことをさりげなく確かめたあと、三井はさっき流川が口付けた箇所にそっと唇を寄せた。
「……これは、念の前借りしただけだし……べつに……他のイミなんてねえし……」
そう、他の意味なんて本当にないのだ、絶対に。……いや、たぶん。いや、おそらく……。
少し早まった自分自身の心拍数に謎の言い訳をして、三井はぱたぱたと火照った首筋を手で扇いだ。
サクラサク――。
大学合格通知を手に、嬉しさのあまり間接的ではないホンモノの口付けをぶちかましてしまうことになる三井の話があったとか、なかったとか。それはまた別の話。
終