「えっと、このあたりに座ったらいいのかしら?」
「……ス」
こくん、と言葉少なげに頷かれる。スマートフォンを三脚に設置している黒髪の前髪がさらりと重力にならって落ちるのを見ながら、私はなんとなく、少しだけ緊張していた。
息子と二人で遊びに来ることはあっても、彼だけが尋ねてきたことは今までにない。
息子と母と三人で喋っていると「三人寄ればかしまし娘ね、ひとり男だけど」なんてからかわれるほどに、実の息子は男の子にしてはよく喋る方だ。
だからこそ、年相応にあまりしゃべらない男の子の扱い方が分からない。いや、『男の子』というには、もう実の息子も、いま前に居る息子のパートナーの彼も、成人をとうに迎えた大人なのだけれども。親としては、いつまで経っても、子ども扱いしてしまうのを許してほしい。
息子のパートナー……『楓くん』からメッセージが届いたのは数日前のことだった。
一応、連絡先は交換していたものの、二人が尋ねてくるならば、息子から連絡が来ることが殆どで。だからこそ、一瞬何事かあったのかと身構えてしまった。
どくん、と心臓の鼓動がいやに大きく響く。急な病気?それとも怪我……?息子が直接連絡できないほどのものだったらどうしよう。悪い想像ばかりが膨らんでしまう。
大丈夫、あの子が前歯を折ってきたり膝を壊した時よりはきっと大丈夫……そんな言葉を自分自身にかけながら、おそるおそるメッセージの全文を開いた。
――拝啓 お義母様
か、かしこまっている……。
自分が身構えたような用件と180度ひっくり返ったような一文が目に飛び込んできた。思わず小さく吹き出してしまう。これは緊急の要件ではなさそうだ。安心してひととおり笑った後、ゆっくりソファに深く腰掛けながら、メッセージの続きを目でたどった。
――新緑がまぶしい季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
どう考えても、楓くんの口からすらすらと出てくるような言葉ではなさすぎる季節の挨拶に、またしても微笑みながら読み終えた内容はこうだ。
まだ日付は決められていないが、同性パートナーシップを結んだささやかなお祝いのパーティーを湘北高校バスケ部の知人たちを集めてささやかに行いたい。そのパーティーを行うことは息子も勿論存じているが、そこでひとつサプライズをしたい。そのサプライズビデオレターに出て欲しい、というものだった。
パートナーシップを結んだ日は両家で会食をしただけだったから、後日友人たちを招いてお祝いをしたいという話は聞いていた。楓くんのNBAでの試合スケジュールもあるからなかなか決められなかったようだけれど、今期は残念ながらプレーオフを逃した楓くんのチームは早々にシーズンを終え、早めに日本に帰国することが出来るらしい。その帰国している合間に、どこかで時間を作ってもらえないか、ということだった。
二つ返事でOKをすると、またしても懇切丁寧な感謝の文章と、『ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。』で締めくくられていた。若者らしいビデオレターなんて出たことがない私にとっては、ご指導ご鞭撻を賜るのは、どっちかというとこちら側かもしれないわよ?なんて思いながら、不器用ながらも誠心誠意が伝わってくる、楓くんらしい文章にほっこりした。
そして今日。息子は日本のプロチームでポストシーズンであるセミファイナルを戦うため遠征中。そのタイミングで、楓くんがこっそりと我が家にやってきた、というわけだった。
「寿の今日の試合、何時からだっけ?」
「15時からっす。これ撮り終えたら丁度いい時間かも」
「あら、じゃあ一緒に見ていかない?」
「……いーんすか?」
「当たり前じゃない!私、バスケ見るのはすきだけどやったことないし、楓くんに色々教えて欲しいわ。あ、あとね、昨日買ったマドレーヌがあるのよ~」
どこにしまったかしら、あの戸棚かな?これ撮ったら食べましょうね!瀬戸内レモンが練り込まれててね、四国にあるパティスリーが作ってるんだけど口コミがすごくて。あ、ちなみに寿の誕生日花は檸檬の花なのよ!なんとなく調べた時に檸檬って出てきてビックリしちゃって。これはもう寿が遠征で行った時に買ってくる運命じゃない!?って言ったけど、寿に言ってもフーン……くらいでなんか拍子抜けしちゃったわ。でも何回もうるさく言ってたら、寿が四国のチームに移籍した時に一度買ってきてくれたのよ。それがね、口コミ通りにすっごく美味しくて!寿はワンシーズンしかそのチームに居なかったからもう買ってきて~!って言えなくなっちゃって、でもやっぱり食べたくてそこからずっとお取り寄せしてるの。
立て板に水のように話していることに気付いたのは、楓くんが小さく口元を緩めたからだった。あらやだ、おしゃべりなオバサンだと思われちゃったに違いない。
「あ、ごめんなさい!私ばっかり喋っちゃったわね……」
「いや、全然大丈夫っす。なんか……センパイのお母さんだな、って思って……」
喋り方とか、すげー似てる。そうぼそっと呟いて、楓くんがゆっくりと目を細める。その表情だけで、息子のことを大切に思ってくれているのが分かって、胸の奥のあたりがじわ、っとあたたかくなる。
緊張した面持ちで、初めて息子が楓くんを人生のパートナーとして家に呼んでくれた日を、昨日の事のように思い出せた。
楓くんがスマホをいじって、小さく頷く。
「……これで撮れると思うっす」
「えっと、何を言えばいいとか……ある?」
「お義母さんがセンパイ……いや、寿さんに伝えたい事とかあればそういうのを貰えると良い……って石井が。……あ、石井っていうのは、このサプライズビデオレターを編集してくれる同期の奴なんすけど」
「ふふ、分かったわ。ちょっと待ってね」
目を閉じる。息を吸って、ゆっくりと吐く。再び瞳を開けて、楓くんの真っ黒な瞳を見つめて笑った。
「いいわ、はじめてちょうだい」
□□□
寿へ。こんなサプライズがあるとは思ってなかったでしょう?今頃ビックリして顎が外れそうなくらい口をぽっかり開けてるんじゃない?寿に黙っているのは罪悪感がちょっぴりはあったけど、お母さんとしては、あなたの高校時代に色々心配をかけさせられて小ジワが増えたんだから、これでチャラってことにしてね、ふふ。
さて、面と向かっては貴方に伝えられない話をするほうが良い……ってことなので、そういう話をしようと思います。こういうのでいいのよね?楓くん。……え?楓くんに喋りかけちゃダメなの?いいじゃないこれくらい、編集のイシイくん?がなんとかしてくれるわよ!ね!……えーと、それで……何だったかしら、そうそう。本題ね。
お母さんは、あなたを産む前……いや、産んでからもそうだったけれど、仕事が大好きな人間でした。仕事で成果を出して、自分を褒めてもらえることが何よりも大事だった。この世に、仕事と自分以上に大事な物なんて無い……そう思っていました。寿、あなたに出会うまではね。
あなたが生まれて、私は初めて、自分以上に大切なものが、この世界にあるのだと気づきました。本当に、私のもとに生まれてきてくれてありがとう。
あなたは小さいころから勉強もできて、運動も得意で、友達をつくるのも得意だった。ほかのお母さん達からも「寿くんは良い子ね」って言われることが多かったわよね。
あなたは手がかからなくて本当に良い子ね、って、私が褒めることも多かったと思う。その誉め言葉が、いつのまにか、あなたに『褒められなきゃ、良い子で居なきゃ』と思わせていたのかもしれないと、今では思ったりしています。
高1のあの時……もっとあなたに寄り添っていれば。あなたの「大丈夫だよ」という『良い子であるための嘘』を、私は仕事が忙しいことを理由にして深く考ることができなかった。その事だけは、今でもずっと悔やんでいます。
そして、あなたが思い詰めたような顔をして、楓くんと人生を共にしたいと打ち明けてくれた時……あなたは泣いたわよね。
母さんが望むような結婚が出来なくてごめん。
孫を見せられなくてごめん。
良い子でいられなくてごめん。
心配しかかけられなくてごめん。
その時にね、本当は抱きしめて「おめでとう、話してくれてありがとう」って言うだけじゃなくて、こうも伝えたかったの。
寿、あなたはね。この世に生まれてきてくれただけで偉いの。
特別じゃなくても、人より優れてなくても、良い子じゃなくても。たとえ万人に認められなかったとしても、生きているだけで充分偉いの。そう思っている人がここにいることを、覚えていて。
子は育ち、親を越えていく。あなたは十分、大人になった。もう、私の支えなんて本当は必要ないのかもしれない。
でも忘れないで。いつだってあなたが生きているだけで嬉しいと思っている人間がいること。
そしてその人間が、私ともう一人、増えた事。……ね、楓くん。
あなたがそよ風の爽やかな新緑の季節に生まれた日。この世にこんな幸福があるんだって、私は気付かせてもらった。
だからあなたの名前に、幸福を込めたの。寿――この漢字は、幸福、祝福を願う言葉。その名前のとおり、あなたはこれからも幸せに人生を生きていってほしい。それだけが、母親としての願いです。
おめでとう、寿。
あなたが息子であることを、私は誇りに思っています。
□□□
ピッ、と電子音が鳴り、録画の終了を伝えてくる。表情は見えないけれど、目の前のスマートフォン越しに、スン、と楓くんの小さくすすった鼻の音が聞こえた。
「ね、楓くん」
「……はい」
「勿論、私は楓くんの幸せも願っているの。もう、あなたは私にとっても息子みたいなもの。あなたも、生きてるだけでえらいのよ」
「……ッス…」
おおよそ190㌢はある身体が背中を丸めている姿が愛おしい。仕切り直しとばかりに、私は敢えて大きくパン、と手を叩いた。
「さて!もうすぐ試合の配信始まっちゃうわね!マドレーヌとお茶用意しなくちゃ!楓くん、珈琲は飲める?」
「大丈夫っす」
「じゃ、ちょっといい豆を挽いちゃおうっと!」
わざと大げさに腕まくりしながらキッチンへと向かう。
「楓くん」
ケトルでお湯を沸かしながら、私は確かめるように彼に聞いた。
「今日……寿、勝つわよね」
「センパイなら、絶対にやる」
「……ふふ、そうよね」
カウンターキッチンから、ソファにちょこん、と座っている楓くん越しに、マンションのベランダに置いている檸檬の木の鉢植えが見えた。
二十八年前と同じように。檸檬の花は小さく可愛らしい花をつけて、今年も彼が生まれた新緑の春を祝福している。
きっと、私達のように。
――かみさまが愛をつむいだ――
end