経年劣化で少し色褪せたアナログの現像写真には、仏頂面で黒いネズミの耳を付けた五歳児が写っている。その横には、彼と正反対の満面の笑みを携えた姉。おそらく小学生低学年。
愛と夢とファンタジーを謳った《うたった》テーマパーク内にも関わらず、左腕にはゴムボールらしきバスケットボールを抱えている。「それね、『かえちゃん、それ持って行かないわ]って言ったら無表情のまま玄関で仁王立ちして、てこでも動かなくってね。仕方ないからボール持ったまま行ったのよ」とは彼の母曰く。右手は気持ちばかりのピースをしているつもりだろうが、薬指が綺麗に折りたためず三本になっているのがいじらしい。
「お、その写真かわいい」
「そう?」
「お前のねーちゃんが」
「…………」
うそだよ。そう言いながら幅広の二重を細める。
「お前の方が数倍かわいい」
「……かわいいもいいけど、かっこいいって言って」
他愛ない会話をしながら黒髪をいじり、口を尖らせながらその所作をじっくりと眺めることができるのも、オフシーズンとこの季節だけだ。
仲間内だけで行うウエディングパーティーを翌年の初夏に控えた年末年始。クリスマスゲームを終え日本に弾丸帰国した自分のパートナー……流川楓は、その大きな背を冬眠前のクマのごとく丸めながら、写真と対峙していた。
なれそめムービーを作る際に小さい頃の写真が必要だという旨を彼の母親に話すと、両手で抱えきれないほどのアルバムを携えて三井の暮らすアパートメントにやってきたのがほんの二時間前。
三が日のどこかで顔を出してね、と軽くなった手提げ袋を手に、颯爽と帰って行く背中を見送ったのが一時間前。自分の幼児期の写真の選別に悪戦苦闘している後ろ姿を、年越し用の蕎麦を湯がきつつ三井はこっそり笑いながら見つめた。
「オレさあ、結婚式のなれそめムービー、なんか好きなんだよな。ゲストで呼ばれてあれ見るのすげー楽しみ」
「なんで?」
「あれ見てるとさあ、小さい頃って全然接点ねえじゃん。別の場所で生まれて、別の世界で育って。でもさ、どっかで二人の人生が交錯して、そこから二人で撮ってる写真とかがスライドで流れてくるだろ。なんか上手く言えねえんだけど……一人一人の人生だったそれが交わって一緒になったんだ、って感動するんだよな」
「……ま-、わからなくもない」
流川の右手が、インターハイで広島に行った時の写真をペラリとつまんでいる。帰りに宮島に観光に寄ったときの二人の写真だ。後ろに大人しく写っているシカが、この十秒後に大事件を引き起こしたことも鮮明に思い出す。どうやら隣の男も同じ事件を頭に思い浮かべているようだった。
「このあと……」
「オレのチケットがシカに食われたんだよな」
「そう、帰りのフェリー乗れねえって騒いでた」
「懐かしいよなあ」
顔を見合わせて思い出話に花を咲かせる。そんな、のんびりとした時間が過ぎていく年の暮れ。
□□□
地球の上に大きく揺蕩う太平洋を挟み、生活する時間軸も、夜に眺める月の形も違う場所で自分達は暮らしている。
まるで違う世界とも言えるその距離を越え、茫漠とした果てしない別離の日々を想い、無理して寄り添った人生を歩まなくてもいいのではないかと思った時もあった。
そんなとき、三井はふと、あの日の彼の言葉を思い出すことがある。彼が渡米する前の、夕焼け色に染まった公園のバスケットコート。長く伸びた影を背に、逆光でこちらを見つめていた瞳。
「色々考えて、答えは出たのかよ」
「うん」
「……どんな?」
流川の長い睫毛が一瞬伏せられる。この男は睫毛にも美しい影が落ちるのだなと、場違いなことを思った。一度下に落とされた目線は、覚悟を決めたようにしっかりと自分の眦に焦点を合わせられる。
「これからオレは、センパイを楽しくさせるよりも悲しませることが多くなるのかもしれない。もしかしたら、オレはセンパイのそばに居ない方がいいのかもしれない」
「……うん」
「それでも、オレはあんたの人生のそばに居続けるっていう答えが出た」
決して流暢ではないその言葉は、一瞬で三井の心をめちゃくちゃにした。ほっとした、とかそんな言葉では言い表せられない。
暴力的なほどの安堵に襲われ、喉元を締め上げられて、絶息しそうなほど苦しくなった。
「そっか」
笑ったつもりだったのに、うまくいかずに頬が痙攣して声が掠れた。
□□□
「オレは、お前と人生が交差したこと、この季節になったらいつも感謝してる」
あのとき、三井の人生のそばに居続ける覚悟をしてくれたこと。そして、それが今も続いていること。
あと数時間で、隣にいる男がまた歳を重ねる。その瞬間に立ち会わせて貰えること。
お互いの両親に自分達の関係を慈しんでもらえること。周りの人に見守られて、自分達がそばにいられること。
そんなことを考えもしなかったあの十代の頃。回り道もたくさんしたけれど、すべての回り道が必要な経験だったのだと、今なら思える。
きっと、これからも自分達は人生を漂い続ける。ちょっとした波で浮き沈みを繰り返し、また全然思いもしなかった所へ漂着するころもあるかもしれない。
それでも、与えられた地図にはない素敵な場所を見つけること。それを含めて人生なのだと今なら思える。愛おしい、二人三脚で歩む二人の人生。
「るかわ、」
生まれてきてくれて、人生を共にしてくれて、ありがとう。
切れ長の睫毛を微かに震わせて、隣の男が笑った。
終