おやすみなさいの祈り

「昨日夢見たんだけど、自分が死ぬ夢だったんだよ」


 この人の唐突っぷりは、一番いい所でプツンと試合中継が終わる民法テレビ放送といい勝負をする。流川はこっそりそう思っている。

 自主練を終えた部室には二人だけで、先に帰った各々の制汗スプレーの香りが入り混じった匂いが室内にこもっている。流川が黙ったまま、その空気を入れ替えるように窓を開けると、「それでよお」と三井が続けた。
 リアクションの少ない自分は、家族からも「ねえ楓、聞いてるの?」と散々言われてきた人生だった。しかし、このセンパイに関しては、流川が聞いているというアピールで相槌を打つか打たないかは、特に関係ないらしい。そのことに気づいたのは、ここ最近のことだ。

「自分が死んでて、そんで自分はユーレイみたいなモンになってんのか、天井にふわふわ浮いてて、自分が死んでるカラダを見下ろしてるような感じだったんだよ」
「……へー」
「そんで死ぬ夢って何の暗示?と思ってネットで調べたらよ、幸運の予兆らしいんだ。これはよ、先週受けた大学のスポーツ推薦のことに違いねえって思って浮かれたんだけど」
「合格オメデトーゴザイマス」

 おい早ぇよ!まだ合否通知来てねえんだって!なんて声が飛んでくる。自分の適当な返しにツッコミをいれつつも、満更でもない三井の声に少しだけ唇を緩めた。

「ま、幸運とかどーとかは重要じゃねーから今どーでもいいんだ。そんで、また夢の話に戻るんだけどさ、葬式の前に白い着物?に着替えさせてもらってて、オレの身体が。そんときに全裸?にさせられるじゃんか」
「……死んだことねーからよく分かんないんすけど、そーなんすか?」
「おう、オレも死んだことねーから、脳内が勝手にイメージ映像で流してる可能性あんだけど。そんときにさ、オレの身体……つーかオレの大事な大事なムスコ?がさあ、ちょっぴり皮をかぶってることにオレは夢の中で気づいたわけ」

 はて、皮……とは…?


 自分の脳内にいる流川Aが、手に両手に掲げている液晶画面にミカンの皮がツルンッと向ける映像が脳内再生された。いやいや、そうじゃねー。シモの方。……と、もう一人の脳内の流川Bが首を横に振っている。そう、今回は流川Bの言う通りだ。
 このひとは、唐突にシモネタをダンクショットの如くぶち込んでくる。

「あ、ちょっと待て。……今お前脳内で想像したな?エッチ!スケベ!!」
「何を……?」
「オレが仮性包茎だって思ったろ!?ちげーから!ズル剥けだから!なんかたぶんだけど死んだあと、タマと竿がキュってなっていつもより縮んでたからチョッ…トだけ皮かぶってただけ!誤解すんなよ!?」
「してねー」


 そもそも、流川が今脳内で想像したのはミカンの皮だ。ただ、そんなことを知る由もない三井はひとしきり弁明のためにキャンキャン騒いだのち、咳払いをして続きを話し始めた。

「でさ、皮かぶってたら恥ずかしいだろ?で、天井に浮いてたオレは、自分の尊厳の為に決意したんだ。一生懸命に空中を平泳ぎして、天井に浮いてたとこから床に近づいて自分のムスコをさ、剝いてやろうとするんだけど、手が半透明に透けてて全然身体にさわれねーの。そこで、あ、オレ……そういやユーレイだって気づいて。でもさ、そんなことじゃ諦めねえ……諦めねえ男だ……って、オレ自身の尊厳のためにずっと必死に剥こうとしてて……で目が覚めた。全身汗だくだったわ。ウケるだろ」


「ほぉ……」
「なんだそのリアクション。ウケたのかウケてねーのかはっきりしろい」

 流川としては、このセンパイは夢の中でもおもしれーひとなんだな、と思った上での感嘆の声だったわけだが、三井に伝わるわけもなく。
 機嫌を損ねたらしい三井にむかって放物線を描くように、さきほど自分用に買って来たばかりのペットボトル飲料を詫びのつもりで投げる。それを片手で受け取った三井は「お、気が利くじゃねーか」なんて言いながら、嬉しそうにキャップをパキリ、と音をさせながら開封した。

「そんでさ、ここからが本題。オレ……今日一日考えてたわけ。誰に託したらいいかって。授業中もずっと考えてて……そんで、お前に託すしかねえかも。て結論に至ったわけだ」
「……ナニを……?」
「オレが死んだときに万が一、オレの息子が皮かぶってたら、責任もってオレの息子の皮を剝いてほしいなって」
「…………くだらねー……」
「おいおい、大事なことだぜ!?一人の男……ミツイヒサシの最期の大事な尊厳を、お前に全部託すって言ってんの」

 そういいながらも、三井の顔はニヤニヤと笑いを堪えきれなくなっている。結局言いたかったのは、『この冗談』らしい。流川は大袈裟に溜息をついてみせた。

「死ぬとか縁起わりー」
「勿論まだオレは死ぬわけにはいかねえよ。大学でもバスケするし、あわよくばプロ選手にもなりてえし?安西先生みたいに指導者になりてえ夢もある。だから、オレ達がよぼよぼのじいさんになった時の話だっつーの」
「センパイがよぼよぼのじーさんなら、オレもよぼよぼのじーさんだと思うけど」
「あ、なんかそんな歌詞あったよな。ワタシがオバサンになったら、あなたもオジサンよ?みたいな」


 森高千里だったっけ?なんて話が脱線している三井を見つめていると、ひとりで納得したらしくウンウンと何かしら頷いている。


「なんかさ、よぼよぼのじーさんになった時……近くに誰がいるのとか全然分かんねーなと思って。悲しいけど勿論両親は先立ってると思うし、嫁がいるのかもわかんねえ。未知数すぎだろ?でもさ、確実に言えることは……お前とはきっと、じいさんになっても交流あるだろうなって思ったから。だからお前に託そうと思って」
「託す……って、センパイの包茎を?」
「だから包茎じゃねーって!万が一のためにだよ!……でも、そう。お前とは、なんかずっと縁があって一緒にいそうだな、と思ったから」
「……フーン」

 男子高校生のバカバカしい、明日になったら当の本人が忘れていそうな冗談ばかりの約束事。
 それでも、このひとのなかで、自分が年老いても近くに居ることを想像してくれていることに関しては、満更でもない心持ちになる。

「でもセンパイが死ぬような年齢なら、オレだってその時にはもう死んでるかもしんねーす」
「はあ~?そこは頑張っとけよ。オレより二年も若いじゃねーか!」

 もうそんな年齢になったら二歳差なんて大した違いはないと思ったけれど、確かにこの人を悲しませるのは不本意である気がする。なので流川は小さく「ウス」と頷くだけにとどめた。

□□□

 まさに、彼があの時に言った『よぼよぼのじーさん』の如し、皴だらけの自分の手を見つめて、流川は小さく微笑んだ。
 この手を使って、彼の息子の尊厳を保ってやらなくてもよさそうなことは、とうに分かっていた。それでもあの時、自分はこのひとと約束したから。

「……結局、オレが剝かなくても大丈夫ってわかったのそのすぐあとだった」

 十代の男子らしいアホらしい約束事をしてから半年と数か月後、どういったわけか先輩後輩の垣根を超えた。
 お互い緊張でガチガチのまま、ベッドに押し倒して白いシーツの皴と共に、彼の息子を初めて見た時のことをふと思い出す。思わず「皮かぶってねー」とムードもへったくれもないことを呟いて、耳まで真っ赤にした三井にポコ、と軽く殴られたことも、遠く懐かしい記憶だ。

 そこから、色々なことがあった。物理的に遠く離れたこともあった。想いがすれ違うこともあった。大切にしたいからこそ、互いの事が分からなくなってしまったときもあった。

 夢を追い求め、単身海を越えアメリカに渡る空港の搭乗口。慣れないプレップスクールでの集団生活。「オレも頑張るから」と気丈に振る舞い自分を励ましてくれた電話の最後、受話器越しに聞こえた、小さく鼻をすする音。
 夢のNBA選手になってつかの間に起こった初めての大怪我。長期療養とリハビリの日々。
 そんな、流川が前に進む足を止めそうになった時。いつだってこのひとが、後ろから背中を押してくれた。

 誰かと手を取りあって眺める人生の景色が、どれだけ綺麗なのかを教えてくれた。

 流川は三井の冷たくなった白く透き通る手を、自らの頬にその手のひらを沿わせるようにしてくっつけた。現役を退いて長い月日が経っているにもかかわらず、三井の美しく長い指の爪は、短く切りそろえられている。この短い爪で頬をくすぐられるのが、何よりも好きだった。
 三井の爪のまるい山のような稜線を眺めて、指の先端に小さく口付ける。

「……センパイ」

 世界で一番愛おしい名前を。何百万回、何千万回と呼んだ名前を口ずさむ。


 何だよ、と首を傾げてまばたきをする癖。考えるときに少し唇をとがらせる癖。木目のブラインドから差し込む夕陽。日光を浴びたダブルベッドに敷いた生成りのシーツの香り。
 少しずつ白髪が増えていくことをからかいあった日々。縁側の春の日差しにまどろみながら、愛猫を膝にのせて微笑んでいた姿。

「オレ、ちゃんと、センパイより長生きしたよ」

 誰よりも寂しがりやなひと。二歳も若いんだからちゃんとオレより先にポックリ逝くんじゃねえと笑ったあの十代の頃の約束を、自分は果たすことが出来た。
 安らかに微笑んだように眠る表情の三井の頬に、最期の口付けを落とす。

「まだオレにはオーバータイムが残ってるみてーす。だからちょっとだけ、そっちで待たせるかもしんねーけど……絶対にあっちでも見つけ出すから。天国でもワンオンしよう。なんなら来世も一緒にバスケ出来るように、カミサマに先にお願いしておいて」

 雲の上にあるバスケットコートの前で、甘栗色の髪を太陽に透かした十代の頃の彼の笑顔を思い浮かべる。

「ね、……いつか、約束守れたな、ってほめてくれる?」

 そんなの、当たり前だろ。


 耳元で、誰よりも好きな声で小さく囁かれたような気がして。流川は微笑んだまま、静かに瞼を閉じた。